風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

肩の力を抜いていいのだそうですね。もっと自然体で。

力を捨てよ、
  知れ、わたしは神。詩編46:11
 
イエスは弟子たちに、
「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、
   しばらく休むがよい」と言われた。
  出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。マルコ6:31
 
        (ローズンゲン日々の聖句4/2;土)
 
 自分の力として頼むものを「捨てよ」と。
弓を、槍を、戦車を。
 
 そして、私たちがいちばん頼りにしているのが、自分の理性なのでしょうね。
いろいろ、判断している自分の理性。
そして、その理性が自分自身だと思っている私たち。
その働きをも「捨てよ」ということなのでしょうか。
 
 自分の理性、それも、自分の力で保っておれるわけではないのですね。
私たちは、自分の理性が正常に働いているのが当たり前だと思っている。
けれども、いったん、なにかで、正常に働くなっても、自分自身ではどうしようもない。
あの、バビロンの王、ネブカデネザルの時のように(ダニエル4:28~37)
結局のところ、自分の理性が正常に働いているのも、自分自身によることではないのですね。
自分の命を自分で保っているのではないのと同じように。
 
 天の神、主。
父である神と呼ばれる方、御子である神と呼ばれる方、聖である霊と呼ばれる方が、それぞれ、全知であり、全能であり、永遠、不変の方でありながら、互いに愛し合い、尊敬しあい、相手を大切に思い合って、心を一つにし、思いを一つにし、行動を一つにし、存在を一つにしていらっしゃる、一つになっていらっしゃる神。
そのひとつに、愛によって加わる者をと望まれて造られた私たち人間。
 
 私たちの先祖は、天の神、主と一つになっていることでは飽き足らず、もっと素晴らしい者になろう、神のようになり、善悪を知るようになろうとし(創世記3:5)、神の一人のようになり、善悪を知る者になった(創世記3:22)のだそうです。
今日の私たちも、その、先祖の、創造の目的からの外れを受け継いで生まれて来ているのですね。
 
 それで、理性は、常に天の神、主に対抗し、天の神、主よりも自分を上の位置に置こうとしようと働く。
その心に計ることは、常に悪に傾くことにもなっているのだそうです(創世記6:5)。
だから、私たちが、申命記で、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:4新共同訳)と言われている、
また、イエスが言われる「あなたの隣人をあなた自身のように愛する」(マルコ12:29~31)生き方をするためには、この、「生まれたときからの霊」という、自分自身から出て来る理性の働きを、いったん、捨てなければならない、ということでもあるようですね。
 
 「古い肉」とも呼ばれている「生まれたときからの霊」という私自身は、イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて死んでしまったもの、処刑されたものと認めて、その私から来る理性の働きも、死んだ者から来たものと認めて、捨てていく。
 そして、復活し、天の父である神の右の座に着いておられるイエスが派遣してくださる、「聖である霊」と呼ばれる方をお迎えし、この方が私たちの心に置いてくださる、父である神の、今の、この私に対して思っておられる、その御思いによって生きる。
天の神、主と、心を一つにし、思いを一つにし、行動を一つにし、存在を一つにしていく生き方。
そういう新しい理性の働きによる生き方を与えていただけるのだそうです。
イエスが言われた「新しく生まれた」者の生き方を(ヨハネ3:3~8)。
今日も。
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