風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

大喜びで祝宴を開く父親のように

あなたたちの神、主は恵みと憐れみに満ちておられ、
 そのもとにあなたたちが立ち帰るなら、
  御顔を背けられることはない。歴代誌下309
 
自分の罪が消し去られるように、
  悔い改めて立ち帰りなさい。
 こうして、主のもとから慰めの時が訪れる。使徒31920
 
      (ローズンゲン日々の聖句4/15;金)
 
 天の神、主は、あわれみ深い方なのだそうです。
私たち、自分が、天の神、主の創造の目的からずれてしまっていて、「的はずれ」の存在になっていることを認めて、天の神、主のほうに向き直り、この方のもとに立ち帰るなら、大喜びで迎えてくださるのだそうです。
 
 イエスのたとえ話にある、家出をして、生前贈与を受けた相続財産を放蕩に使い果たし、浮浪者のようになって帰って来た弟息子を大喜びで迎え入れ、「死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから」と祝宴を開いた父親のように(ルカ151132)。
 
 天の神、主は、私たち人間のそむきの罪を消し去るために、永遠の昔から共におられ、天地創造を共になさった御子である方を「女の子孫」として(創世記3:15)ダビデの子孫である、ナザレ村の一人の貧しい処女マリヤをとおして、人の世に、人間イエスとして生まれさせ、この方がおよそ33歳の頃、すべての人の身代わりとして立てて、ユダヤ人とローマ兵を用いて十字架刑で処刑し、すべての人間のそむきを処罰済みとしてくださったのだそうです。
 
 それで、方向転換して、主のもとに立ち帰るなら、すべての罪は処罰が終わっているものとして取り扱って下さるのだそうです。
 
 そして、死人の中より、新しい霊のからだに復活し、天の「父である神」の右の座に帰られたイエスが派遣してくださるもう一人の助け主、「聖である霊」と呼ばれる方が、受け入れる者の心に「父である神」の、一人一人に思って下さっている御思いを書き付けてくださるので、受け入れる者はこの部分において、「父である神」と同じ思い、同じ願いを持ち、一つ心になり、一つ行動をとる者としていただけるのだそうです。
 
 それで、受け入れる者は、「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記126)とおっしゃられた、天の神、主との一つのものとして回復され、「父である神」が一人一人を通してしようと思われることをしながら、御子イエスが再び来られるときに実現する「慰めの時の訪れ」を待ち望みながら生きるのだそうです。
今日も。
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