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風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

すべてを覆う愛で愛されて

憎しみはいさかいを引き起こす。
  愛はすべての罪を覆う。1012
 
 愛は忍耐深い。愛は情け深い。ねたまない。
 愛は自慢せず、高ぶらない。
  礼を失せず、自分の利益を求めず、
   いらだたず、恨みを抱かない。
  不義を喜ばず、真実を喜ぶ。Ⅰコリント1346
 
        (ローズンゲン日々の聖句4/23;土)
 
 このような愛で愛してくださっているのだそうです。私たちを、天の神、主は。
 
 「御子である神」と呼ばれる方が、天使の万軍に号令する、その天の栄光の地位を後にして、人として、人の世に来て下さり、私たちの罪を覆うため、私たち人間の身代わりになって、私たち人間のそむきの罪のすべてを御自身の身に負い取ってくださって、十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうです。
イエスの出生より700年ほど前、天の神、主は、イザヤを預言者として立て、イエスの十字架刑に向かわれる様子を次のように預言されているのですね。
 
 「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、
輝きもなく、
私たちが慕うような見ばえもない。
彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、
悲しみの人で病を知っていた。
人が顔をそむけるほどさげすまれ、
私たちも彼を尊ばなかった。
 
まことに、彼は私たちの病を負い、
私たちの痛みをになった。
だが、私たちは思った。
彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、
私たちのそむきの罪のために刺し通され、
私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、
おのおの、自分かってな道に向かって行った。
しかし、主は、私たちのすべての咎を
彼に負わせた。
 
彼は痛めつけられた。
彼は苦しんだが、口を開かない。
ほふり場に引かれて行く羊のように、
毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、
彼は口を開かない。
しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。
彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。
彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、
生ける者の地から絶たれたことを。
彼の墓は悪者どもとともに設けられ、
彼は富む者とともに葬られた。
彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが。
 
しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。
もし彼が、自分のいのちを
罪過のためのいけにえとするなら、
彼は末長く、子孫を見ることができる、
主のみこころは彼によって成し遂げられる。
彼は、自分のいのちの
激しい苦しみのあとを見て、満足する。
わたしの正しいしもべは、
その知識によって多くの人を義とし、
彼らの咎を彼がになう。
それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、
彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。
彼が自分のいのちを死に明け渡し、
そむいた人たちとともに数えられたからである。
彼は多くの人の罪を負い、
そむいた人たちのためにとりなしをする。(イザヤ532~12新改訳)と。
 
 この、イエスの愛による、そむきの罪をおおっていただく出来事、
ローマの総督ピラトの裁判の席でも、ピラト自身が不思議に思うほどにひと言の抗弁もせず、訴えられるまま、十字架刑を受け取って、処刑を受けてくださった、その出来事により、これを受け取る者は、イエスの死に合わせられた者、死刑の執行が終わった者として扱ってもらえるのだそうです。
 
 そして、受け入れる者には、もう一人の助け主、「聖である霊」と呼ばれる方が来て下さって、「父である神」が一人一人に思っていてくださる御思いを、その一人一人の心に書き付けてくださるので、受け入れる者は、その部分において、「父である神」と同じ思いを思い、「父である神」と一つ心にしていただけるのだそうです(創世記1:26、エゼキエル36:25~28、ヨハネ17:21~23)。
 
 それで、受け入れる者の心にも「父である神」の愛の心が来て、受け入れる者は、忍耐強く、情け深く、妬まず、自慢せず、高ぶらず、礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みをいだかず、不義を喜ばないで真実を喜ぶ新しい心にもしていただけるのだそうです。
 
 だから、この方をお迎えし、この方の中に満たされ、バブテスマされ(沈められ、漬け込まれ)、覆われて、この方が心に置いてくださる御思いについて行くために、心に来る思いに気をつけていてほしいのだそうです。
今日も。