風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

聞くには早く、語るにはおそく、怒るには遅く

 

夢や空想が多いと饒舌になる。
  神を畏れ敬え。コヘレト56
 
 愚かな議論、系図の詮索、争い、
律法についての論議を避けなさい。
それは無益で、空しいものだからです。テトス書39
 
        (ローズンゲン日々の聖句4/27:水)
 
 私たち、天の神、主から、「われわれのかたちとして、われわれのように」 (創世記126と願われて創造されながら、その天の神、主と一つになっている場を捨て、「かみのひとりのようになり、善悪を知るようになろう」とした者(創世記34622の性質を受け継いでいるものなのだそうです。
 それで、私たちは、自分の知識を誇り、自分の考えがいかに優れているかを知らせたくって、その知識をなんとか人にしらせようと、やたらに話す、議論するようです。 かしましく。
 
 キリスト教会の交わりにおいても、だれかが一つ、ずれたことを言うと、2030も言葉が返って来る。まあ、正してあげなければ、と、善意でやっているのですけれど。(私もずいぶん、そういうことをやって来たな、との自戒を込めて。)
 
 「祈り」と言うことにおいても、やたら、しゃべくりまくる。そして、たくさん、激しくしゃべれたから、今日はよく祈れた。恵まれた、と。さらには、私の信仰もまんざらではない、とか思う。(これも自戒です。)
ともかく、聞くことが苦手で、しゃべりたいもののようです。私たち。
 
預言者エリが、神の訪れを知ったとき、少年サムエルに教えたのは、「主よ。お話しください。しもべは聞いております」と申し上げることだった(サムエル39)。
 
 もちろん、積もる憂いと悩みを、ひたすらに申し上げて、神さまに聞いていただけることも素晴らしい恵みですが(サムエル11516口語訳)。
 
イエス御自身も言っておられます。「わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。わたしは父の命令が永遠の命であることを知っています。それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのまま話しているのです」(ヨハネ124950)と。
イエスは、その生涯のすべてにおいて、自分の考えだけで言葉を発したことは一度もなく、ただ、「父である神」が話そうとされたことだけを話し、しようとされたことだけをした方なのだそうです。
 
 イエスが、私たちの身代わりになって十字架刑での処刑を受けてくださっている今は、「私が、私が」と自分の方にばかり心向く私たちも、「生まれたときからの霊」と呼ばれている、今までの私自身はイエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて死んだものとしていただき、復活し、天の父である神の右の座に帰られたイエスが派遣してくださる「聖である霊」と呼ばれる方をお迎えし、この方によって、「父である神」が私たち一人一人に思っていてくださる御思いをそれぞれの心に書き付けていただいて、御父と同じ思いを持つ者にしていただけるのだそうです。
 
 「父である神」は言っておられるのでしょうか。
「あなたを通してこの地上に実現したいこと、この人間の歴史の中でしていきたいことがあるのだけど」と。
 
 聞くに早く、語るにおそく、怒るにはおそいもの(ヤコブⅠ:19)にしていただいて、心に来る「御思い」に聞いていきたいですね。
今日も。