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風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

天の父の御心を行う者に

そのとき、
 あなたたちはもう一度、
  正しい人と神に逆らう人、
   神に仕える者と仕えない者との、
    区別を見るであろう。マラキ書318
 
 わたしに向かって、
「主よ、主よ」と言う者が皆、天の国に入るわけではない。
わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。マタイ721
 
        (ローズンゲン日々の聖句5/7;土)
 
 私たちは、善を行っても悪を行っても何も変わらない、神は見ていない、裁く者などいない、人に分からなければそれでいいと思うものです。
 
「神に仕えるのはむなしいことだ。
神の戒めを守っても、
万軍の主の前で悲しんで歩いても、
何の益になろう。
今、私たちは、
高ぶる者をしあわせ者と言おう。
悪を行って栄え、
神を試みても罰を免れる」(マラキ31415)と。
 
 けれども、天の神、主は言われるのですね。
「正しい人と悪者、
神に仕える者と仕えない者との違いを見るようになる、
そのときが来る」と。
 
 そのとき、イエスに向かって、「主よ、主よ」と言っている者が皆、天の国に入るわけではないのだそうですね。
イエスに向かって、「主よ、主よ」と言いながら、イエスを主とし、イエスに仕えないで、自分自身の理性を主とし、自分自身に仕えている者がいる、ということでしょうか。
そして、それがはっきり区別される時が来ると。
 
 良い木はみな、良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶものなのだそうです(マタイ717)。
私たち自身である、「生まれたときからの霊」は、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」(創世記3522)になっていてる、良い実を結ぶことのできない木、なのだそうです。
 
 私たち、「生まれたときからの霊」から出て来る思いは、天の神、主に対抗し、天の神、主の上に自分を置き、自分の理性を神とし、天の神、主の御思いを無視して、自分一人で善悪を決定できるものになろうとする思いなのだそうです。
それが、人の目にはどんなに信仰深そうに見え、素晴らしく見えようとも。
 
 野生のぶどうの木が、良い実をならせる栽培種のぶどうの木になるためには、野生のぶどうの木を根元から切り取って、そこに栽培種のぶどうの芽を「接ぎ木」するのだそうです。
 
 天の神、主は、私たち人間を、良い実を結ぶぶどうの木にするために、御子である方を、人間イエスとして人の世に遣わし、この方を十字架刑で処刑することによって、私たち人間の「生まれたときからの霊」が処刑されたもの、死んだもの、切り取られたもの、と手続きしてくださったのだそうです。
 
 そして、受け入れる者に、もう一人の方、「聖である霊」と呼ばれる方を派遣してくださって、受け入れる者がこの方、「新しい霊」によって生きる者、「新しい霊」が接ぎ木されたものにしようとしていてくださるのだそうです。
 
 この方は、「父である神」と呼ばれる方と思いを一つにしていらっしゃる方なので、この方から、受け入れる者の心に来る思いは、「父である神」が、私たち、一人一人に思っていてくださる思いと一つ思いなのだそうです。
 
 それで、受け入れる者は、「父である神」と同じ思い、一つ思いを思うようになり、「父である神」が願っておられる、そのとおりの行動をとる者にしていただき、イエスが願っているとおりの実を結ぶ、「良い木」にしていただけるのだそうです。
 
 イエスの思いを土台として、人生を建てていく者(マタイ7:24~27)にしていただけ、天の御国の事実をこの地上で生きる者にしていただけるのだそうですね。
今日も。