風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

祝福され、祝福となり、祝福を届ける器として

今やわたしが救い出すので、
  あなたがたは祝福となる。ゼカリヤ書813
 
 パウロの手紙:
独りで何かできるなどと思う資格が、
 自分にあるということではありません。
  私たちの資格は
   神から与えられたものです。Ⅱコリント35 
 
        (ローズンゲン日々の聖句5/10;火)
 
 父である神と呼ばれる方、御子である神と呼ばれる方、聖である霊と呼ばれる方は、愛し合い、尊敬しあって、自由意思で、自発的に、思いを一つにし、心を一つにし、行動を一つにし、存在を一つにしていらっしゃる方々。
 
 その一つに似せられ、加わる者を、と願われて造られた私たち人間(創世記1:26)。
 
 けれども、人間は、その、天の神、主との一つの場に留まるよりも、「神の一人のようになり、善悪を知る者になろう」として、自分の理性を神とし、これに従う道に迷い出てしまったのだそうです(創世記3:5、22)。
 
 人間の代表として選ばれ、神の民とされたイスラエル
御心を行い、神の民となるとの最初の契約を破って、自分の道に向かい、帰って来るようにと呼びかける、神である主の声に聞こうとせず、おのれの道に進み続けるので、神である主は、ついに、これを呪われたものとし、国を滅ぼし、世界中に散らされたのだそうです。
 
 けれども、神である主は、なお、ご自分の民を妬むほどの激しい愛で愛しておられ、これを救いだし、祝福し、すべての民族に祝福を届けるものとして用いようとおっしゃられるのですね。
 
 パウロは、誕生したばかりのキリストの弟子たちの集まりを激しく迫害し、これをぶっ潰すことが神に仕える道だとし、激しく教会を迫害していたのだそうです。
 
 そして、いよいよ迫害の息をはずませ、弟子たちを捕えるためにダマスコにまで出かけて行ったそのとき、復活されたイエスがパウロに現れ、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。あなたは、私の名を異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ器となる」(使徒9:5、15)と、パウロを使徒として召し、当時の地中海世界に、特に、ユダヤ人以外の人々にイエスの救いを伝える者として用いられたのだそうです。
 
 そのパウロが言うのですね。
自分は、独りで何かができるということではなく、神から与えられ、神に用いていただいている分に応じて働いている者なのです、と。
 
 今は、御子である方が人間イエスとなり、私たち、すべての人間の、すべての罪を御自身に負って十字架刑での処刑を受けてくださり、贖(あがな)(代価を支払って買い戻すこと)のわざが完成しているのだそうです。
 
 そして、受け入れる者に、もう一人の助け主、「聖である霊」と呼ばれる方が来てくださり、「父である神」と呼ばれる方が私たち一人一人を通してしようと思っておられる御思いを、受け入れる者、それぞれの心に書き付けてくださるという、新しい契約が完成している今は、受け入れる者は、それぞれの場で、祝福され、祝福を周りに届けるために用いていただけるのだそうですね。
今日も。