風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

欲しがるのですね。私たちの心。隣人のものも。

あなたの隣人の妻を欲してはならない。申命記521
 
 実に、神の御心は、
あなたがたが聖なる者となることです。
すなわち、みだらな行いは避けなさい。Ⅰテサロニケ43
 
        (ローズンゲン日々の聖句5/14;土)
 
 天の神、主は言われます。
「殺してはならない。
姦淫してはならない。
盗んではならない。
あなたの隣人に対し、偽証をしてはならない。
あなたの隣人の妻を欲しがってはならない。
あなたの隣人の家、畑、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、
すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない」(申命記51721新改訳)と。
 
 天の神、主は、このような思いを忌み嫌われる方なのでしょうね。
だから、このような思いを持つ者が、神の国に入ることはないと言われる。
天の神、主は、私たちが聖くなって欲しいと思ってくださっているようです。
御自身と同じように。
 
 
 それで、使徒パウロを通しても言われるのですね。
「神の御心は、あなたがたが不品行を避け、各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、また、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことです。
なぜなら、主はこれらすべてのことにおいて正しくさばかれるからです。
神が私たちを召されたのは、汚れを行わせるためではなく、聖潔を得させるためです」(Ⅰテサロニケ437)と。
 
 天の神、主は、私たち人間の、表面に現れた行動だけでなく、心の思いを重視される方。
私たちと、心の思いにおいて、一つでありたいと願っておられる方なのですね。
 
 私たち、人間は、天の神、主に、御自身と「一つになる者を」と願われて造られたものなのだそうです。

けれども、最初の人、アダムは、天の神、主との「一つ」の場にとどまることよりも、「神のひとりのようになり、善悪を知る者になろう」(創世記3522)とし、「私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう」(イザヤ141314)とする者の性格を受け継ぐものになったのだそうです。

そして、その性格を、私たち人類は、ずっと受け継いでいるようです。

自分が、人よりも上にいないと気が済まなく、良いものは全部自分一人で独占したい、隣人のものも自分のものにしたい思いを。
 

 それで、私たち人間が、その「生まれたときからの霊」のままで、神の言葉を戒めと受け取り、これを自分の力で実行しようとしても、それは、表面を整えるだけで、心は元のままなのですね。

 

イエスは言われました。

「悪い実を結ぶ良い木はないし、良い実を結ぶ悪い木もありません。木はどれでも、その実によってわかるものです。いばらからいちじくは取れず、野ばらからぶどうを集めることはできません。良い人は、その心の良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです」(ルカ64345)と。

 

 それで、私たち、人間が「生まれたときからの霊」のままで、神の戒めを守ろうとするのは、いばらの実を、一つ一つ摘み取って、そのあとにいちじくの実をセロテープで貼り付け、いばらがいちじくの木になったかのようなふりしているようなもの、なのですね。

 

 天の神、主は、私たち、人間が、ご自身と一つの思いを持つ者の場に帰るためには、人間の本体である「霊」を取り換えなければならないことを御存じなのですね。最初から。

 

 それで、永遠の初めから共におられ、この天地創造を共になさった御子である方を(創世記1章、ヨハネ1:1~3)、人間のそむきの罪を引き継いでいない「女の子孫」(創世記315)として、ダビデ王の家系である、ナザレ村の貧しい一処女、マリヤの胎を通して人間の世に派遣し、この方を人間の身代わりにして処刑することで、すべての人の「生まれたときからの霊」を処刑済み、死んでしまっているものと手続きしてくださっているのだそうです。

今から2000年ほど前、ナザレ出身のイエスが十字架刑で処刑されたことによって。

 

 そのうえで、受け入れる者に、もう一人の助け主、「聖である霊」と呼ばれる方を派遣してくださり、この方によって、受け入れる者の心に、「父である神」の私たち一人一人に対する御思いを語ってくださり、話してくださり、置いてくださって、受け入れる者が「父である神」と同じ思いを持ち、一つ心になるようにしてくださるのだそうです(ヨハネ16715)。

 

 それで、私たちが、自分自身である「生まれたときからの霊」は、イエスの十字架刑で処刑されたものとしていただき、新しい霊として、「聖である霊」と呼ばれる方をお迎えし、その方の働きを受け入れていくなら、「父である神」が厭うことを厭うようになり、「父である神」が願うことを願う者に、「父である神」がしようと思われることをしていく者にしていただけるのだそうです。
今日も。