風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

光と闇とに何のつながりもないように

災いだ、偽りの判決を下す者は。
 彼らは弱い者の訴えを退け、
  わたしの民の貧しい者から権利を奪う。イザヤ書1012
 
 正義と不法とにどんなかかわりがありますか。
光と闇とに何のつながりがありますか。Ⅱコリント614 
 
      (ローズンゲン日々の聖句5/24;火)
 
 「聖」とは、まったく別なもの、という意味を持つ言葉なのだそうです。
「聖なる神」。
人間を造り、人間の住まいとして、この宇宙、この地球の自然環境を創造された方と、人間が自分の理性で考え出した神々とは全く別なる方、なのだそうです。
 
 天の神、主は、私たち、人間を、愛し合う者、ご自身と思いを一つにし、心を一つに沿わせて生きる者を、と望んで創造してくださったのだそうです。
 
 けれども、最初の人、アダムは、その、造られた場、天の神、主と一つでいる場にとどまることをしないで、もっと素晴らしいものに、「神のようになり、善悪を知る者になろう」(創世記347)とし、「神のひとりのようになり、善悪を知るようになった」(創世記322)のだそうです。
 
 天の神、主と、思いを一つに沿わせていく生き方を捨て、じぶんの理性による善悪の判断のとおりを生きる者になり、自分が一番上に立つ者になりたい、他より優れていないと気が済まない者に、そして、よいものは、全部自分一人で独占したい者になってしまったのだそうです。
そして、その子孫である私たちも、同じ性質を受け継いでいるのですね。
 それで、治める者、裁判をする立場に立つと、弱い者の訴えを退け、貧しい者の権利を奪う者ともなってしまうようです。
 
 天の神、主は、そのように、最初の創造の目的からはずれてしまった私たち人間を、なお、惜しんでくださって、回復の道を用意して下さったのだそうです。
 
 永遠の昔から共におられた、御子である方を、人間イエスとして人の世に遣わし、この方をすべての人間の身代わりとして立てて、人間のすべてのそむきの罪をこの方の上に置き、反逆者として処刑し、これを受け入れる者の、「善悪を知る者」となっている、「生まれたときからの霊」をイエスの十字架刑に合わせて、処刑されたものと手続きしてくださるのだそうです。
 
 そのうえで、受け入れる者に、もうひとりの方、「聖である霊」と呼ばれる方を派遣してくださって、この方の働きによって、父である神の、私たち一人一人に対する御思いを、受け入れる者の心に書き付けてくださって、受け入れる者が「父である神」と一つ思いを思う者にしてくださるのだそうです。
 
 この、「聖である霊」と呼ばれる方によって受け入れる者のうちに始まる「新しい人」と「生まれたときからの霊」と呼ばれる今までの私とは、「聖」の関係、延長線を持たない、まったく別のもの、なのだそうです。
光と闇とに何のつながりもないように。
 
 改良して、少しづつよくしていく関係ではなく、「新しく生まれる」(ヨハネ33)関係なのだそうです。
天の神、主は、私たちが、「聖である霊」と呼ばれる方の働きを受け、「新しく生まれて」、ご自身と思いを一つにしながら生きていって欲しいのだそうですね。
今日も。