風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

聖なる民に属する者、神の家族に

あなたの祭壇に、
  鳥は住みかを作り、  
   つばめは巣をかけて、雛を置いています。
 万軍の主、私の主、私の王、私の神よ。詩編844
 
 あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、
聖なる民に属する者、
神の家族です。エフェソ書219
 
     (ローズンゲン日々の聖句6/3;金)
 
 この方と一緒にいる、ともに住むことはなんと幸いなことでしょうと詩人は謳います。
 
「万軍の主。あなたのお住まいは
なんと、慕わしいことでしょう。
私のたましいは、主の大庭を恋い慕って
絶え入るばかりです。
私の心も、身も、生ける神に喜び歌います。
雀さえも、住みかを見つけました。
つばめも、雛を入れる巣、
あなたの祭壇を見つけました。
万軍の主、私の王、私の神よ。
なんと幸いなことでしょう。
あなたの家に住む人たちは。
彼らは、いつも、あなたをほめたたえています。
 
 なんと幸いなことでしょう。
その力が、あなたにあり、
その心の中にシオンへの大路のある人は。
彼らは涙の谷を過ぎるときも、
そこを泉のあるところとします。
初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。
彼らは、力から力に進み、
シオンにおいて、神の御前に現れます。」(詩編8417、新改訳)と。
 
 
 私たち、異邦人であり、神の国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない者です。けれども、天の神、主は、イエスの十字架刑での処刑を経て来てくださる「聖である霊」と呼ばれる方によって、受け入れる者を、「子」とし、神の国の国民、神の家族としてくださるのだそうです。
 
 そして多くの肢体が一つからだを構成するように、天の神、主と一つ心になり、一つのからだの構成部分のようにしていただけるのだそうです(エフェソ21222)。
 
 それで、受け入れる者は、「聖である霊」と呼ばれる方によって心に置いていただく御思いについていくなら、天の神、主の「指先」として、また、耳として、あるいは、口として、天の神、主が話そうと思われるその愛の思い、平和をつくる思いを取り次ぐ者、語る者ともして用いていただけるのだそうですね。
イエスのように(ヨハネ1249~~50)、また、エレミヤのように(エレミヤ20711)。
今日も。