風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

すべての人が、新しく生きる者になって欲しいと

私と共に主をたたえよ。
  ひとつになって御名をあがめよう。詩編34:4
 
 神から遣わされた一人の人がいた。
その名はヨハネである。
彼は光について証しするため、
また、すべての人が
彼によって信じるようになるために来た。ヨハネ1:6〜7
 
      (ローズンゲン日々の聖句6/24;金)
 
 ダビデイスラエルの王になる前のこと、イスラエルの王、サウルの手を逃れて隣国ガテに逃げたとき、ガテの王アキシュにダビデのであることを見破られ、ダビデが気が違った者のように振舞ってアキシュのもとを逃れた時のことでしょうか。
 
ダビデは謳いました。
「私はあらゆる時に主をほめたたえる。
私の口には、いつも、主への賛美がある。
私のたましいは主を誇る。
貧しい者はそれを聞いて喜ぶ。
私とともに主をほめよ。
ともに御名をあがめよう。
私が主に求めると、主は答えてくださった。
私をすべての恐怖から救い出してくださった。
彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。
『彼らの顔をはずかしめないでください。』
この悩む者が呼ばわったとき、主は聞かれた。
そうして、主はすべての苦しみから彼を救われた。
主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、
彼らを助け出される。
主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。
幸いなことよ。その聖徒たちは。
若い獅子も乏しくなって飢える。
しかし、主を尋ね求める者は、
良いものに何一つ欠けることはない。
 
主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、
霊の砕かれた者を救われる。
正しい者の悩みは多い。
しかし、主はそのすべてから彼を救い出される。
 
主はそのしもべのたましいを贖(あがな)い出される。
主に身を避ける者は、だれも罪に定められない」(詩篇34篇新改訳より)と。
 
 天の神、主、「父である神」と呼ばれる方は、御子である方、イエスの十字架刑での処刑を自分の処刑と受け取る者を処刑済みとして扱って下さり、主に助けを求める者を、このダビデの詩のように扱って下さるのだそうです。
 
 「父である神」は、永遠の初めから共におられ、この天地宇宙、人間の創造を共になさった方、「御子である神」を、すべての人間の身代わりとし、すべての罪を背負わせて処刑するために、人間イエスとして人の世に派遣されたのだそうです。
 
 そのイエスが、キリスト(救い主)として立たれる時、「父である神」は、王の前に道を整える者として、まず、バブテスマのヨハネを遣わされ、イエスを神の御子、メシヤ(キリスト、救い主)として世に紹介する者として立てられたのだそうです。
 
 このバブテスマのヨハネの証言によって、すべての人が、イエスをメシヤ(キリスト、救い主)と認めて受け入れ、イエスの十字架刑での死によって完成する、そむきの罪からの救いを、すべての人が受け取って欲しいと願っておられてのことだそうです。
 
 この、バブテスマのヨハネの、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」との証言を聞いて、まず、アンデレとヨハネがイエスについて行く者となり、続いて、アンデレの兄弟シモン・ペテロが、そして同じ町の出身のピリポやナタナエル(バルトロマイ)などが加わり、やがてイエスによって弟子の中から12人が使徒として選ばれ、3年半の、イエスのメシヤ(キリスト、救い主)とし活動された時期を寝食を共にしたのだそうです。
 
 そして、イエスの十字架刑での処刑と、葬り、三日目の復活、そして復活されたイエスと何度も出会い話し合ったこと、40日目、オリーブ山においてイエスが上げられ、雲に迎えられて見えなくなった目撃者としての証言する者となったのですね。
 
 そして、約束の言葉のとおりに、新しい契約、もう一人の助け主「聖である霊」と呼ばれる方が受け入れる者に来られて、「父である神」が一人一人に対して思っていて下さる御思いを受け入れる者の心に置いてくださり、同じ思いを思うようにしてくださる、その事実の証言が、エルサレムから始まって、ユダヤとサマリヤの全土、そして地の果てにまで、全世界に伝えられ、受け入れる者の生き方を新しくしているのだそうです。
共に主をたたえ、ひとつになって御名をあがめながら。
今日も。