風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

詩と賛美と霊の歌によって語り合いながら、ほめ歌を歌いながら

わたしはあなたの前に
 すべてのわたしの善い賜物を通らせ、
  あなたの前に主という名を宣言する。
 わたしは 恵もうとする者を恵み、
   憐れもうとする者を憐れむ。出エジプト33197月の聖句)
 
 
 命ある限り、
私は主に向かって歌い、
長らえる限り、
私の神にほめ歌をうたおう。詩編10433
 
 詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、
主に向かって心からほめ歌いなさい。エフェソ519
 
      (ローズンゲン日々の聖句7/4;月)
 
 天の神、主は、「わたしはある」という名の者だと名のられる方。
その方は、あらゆる良い物を賜物、プレゼントとして、恵もうとする者に恵まれ、憐れもうとする者に憐れまれる方なのだそうです。
 
 その方は、「われわれのかたちとして、われわれに似せた者を」と望まれて私たち人間を造り(創世記1:26)、
その人間の住まいとしてこの大宇宙、地球とその自然環境を創造して下さった方なのだそうですね(イザヤ45:18)。
 
 それで、この詩篇の作者は、「命のある限り、主に向かって歌い、長らえる限り、この方にほめ歌をうたおう」と謳うのだそうです。
 
 
 イエスの十字架刑で処刑を通して私たちに来てくださる方、「聖である霊」と呼ばれる方は、「父である神」と呼ばれる方の私たち一人一人に思っておられる御思いを、受け入れる者の心に、置いてくださり、同じ思いを思い、一つ心にしてくださる方なのだそうです(エレミヤ31:33、エゼキエル36:25~27)。
 
 この方は、賛美の中に住まわれる方(詩篇22:3)。
 
 それで、「父である神」は、私たちも、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合いながら、主に向かってほめ歌を歌いながら、この方、「聖である霊」とか「御霊」と呼ばれる方に満たされ(浸され、漬け込まれ、覆われ)て(エペソ5:18~19)、いよいよご自分とと一つ思いに、一つ心になりなさいと、使徒パウロを通して勧めておられるのですね。
 
 
 出エジプトの時、モーセが、この方が仰られるとおりに手を海の上に差し延ばすと、この方は一晩中強い東風を吹かせて海を退かせ、イスラエルの民が海の真ん中のかわいた地を行かせて向こう岸に渡らせ、今度は、向こう岸からモーセが手を海の上に差し延ばすよう示されて、モーセがそのとおりにいたとき、水はもとに戻って、後を追って海に入ったエジプト軍は海の水に飲まれてしまったのだそうです(出エジプト141531)。
 
 エジプトを脱出したイスラエルの民の数は、戦闘に参加できる男の数が603550人(出エジプト3826民数記232)、
そのほかに、数えることをしなかったレビ人、年寄りや子どもたち、女性たち、そして、加わって来た、イスラエル人ではない多くの人たちがいたそうですから、200万人ともそれ以上とも言われています。
 
 最初、その人たちの訴訟をモーセ一人でやっていたため、民も一日中、順番待ちで立って待っていたようですが、天の神、主は、しゅうとのミデヤン人の祭司イテロに知恵を与え、モーセに忠告させ、モーセはこの忠告に従い、1000人の長、100人の長、50人の長、10人の長を立てて、訴訟を分担し、モーセの重荷を軽くし、モーセも民も長持ちするように導かれたのだそうです(出エジプト181326)。
 
 
  「父である神」は、私たちが、「聖である霊」と呼ばれる方によって受け入れる者の心に来る、「父である神」の御思いについて来て、ご自身が私たち一人一人を通してしようと思われることを共にしていき、この方の知恵と力をもって進んでいくようにと願っておられるのだそうです。
今日も。