風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

小さい子どものように聞く心を

若者にすぎないと言ってはならない。
 わたしがあなたを、だれのところに遣わそうとも、
   行ってわたしが命じることをすべて語れ。エレミヤ書17
 
 主はパウロに言われた。
「恐れるな。語り続けよ。
黙っているな。
わたしがあなたと共にいる。使徒18910
 
      (ローズンゲン日々の聖句7/7;木)
 
 紀元前627年のこと、天の神、主、「『わたしはある』と名のられる方が、エレミヤをご自身の預言者として召し出されたとき、「わたしはあなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた」とおっしゃられたのだそうです。
 
 「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません」と答えるエレミヤに、神である主は、冒頭の言葉で答えられたのだそうです。「彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたと共にいて、あなたを救い出すからだ」と(エレミヤ11~8)。
 
 
 使徒パウロは、アテネを去って、コリントに来て、まず、神の選びの民であるユダヤ人にイエスのことを伝えようと、安息日ごとに、ユダヤ人の会堂に行き、イエスが、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために十字架に架かって死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパ(ペテロ)に現れ、それから十二弟子に現れ、その後、500人以上の兄弟たちに同時に現れたこと、その後、ヤコブ(イエスの弟)に現れ、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私(パウロ)自身にも現れて下さった(Ⅰコリント1538)ことを伝え、イエスがキリスト(救い主)であることを伝えて、天の神、主、「わたしはある」と名のられる方からの救いを受け取るように勧めたのだそうです。
 
 けれども、彼らは反抗して暴言を吐いたので、パウロたちはユダヤ人から離れ、異邦人にイエスを伝えることになったのだそうです(使徒18:1~11)。
そのとき、神である主は、上のような言葉をかけられ、「この町には、わたしの民がたくさんいるから」と言われたのだそうです。
 
 
 エジプトを脱出したイスラエルの民は、神の山ホレブ(シナイ山)に到着し、ここで、モーセを通して、天の神、主の御心(律法)を示されたとき、「主、「私はある」と名のられる方の仰せられたことは、みな行います」、「主の仰せられたことはみな行い、聞き従います」と答えたのだそうです(出エジプト24118)。
 
 けれども、その後の800年ほどのイスラエルの歩みにおいては、「聞き従う」どころか、いよいよ、「神の一人のようになり、善悪を知る者」(創世記3:22)である実態が明らかになるばかりで、天の神、主を無視し、自分の理性による善悪の判断のとおりに生きていく、そむきの実態が明らかになるばかりだったのだそうです。
 
 
 「自分はできている」、「自分でちゃんとやっていける」と思っている人は、「私はあわれみなど必要ない」と、天の神、主からのあわれみによる恵みの賜物(プレゼント)、イエスによる救いなど必要ないとして、これを無視するのですね。
 
 けれども、小さい子ども、自分では生きて行けなくて、親の世話を受けて生きていくしかない小さい子どものように(マタイ1816)、自分には、正しさはない、心に起こる思いは自分を言い立てる思いばかり、天の神、主にそむく思いばかりであることを知り、それを認めた者は、この天の神、主からの恵みのプレゼント、イエスの十字架の死と復活による罪の赦しをいただく者になるのだそうです。
 
 そして、「聖である霊」と呼ばれる方をお迎えして、天の神、主の御思いを心に置いていただき、天の神、主と同じ思いを思い、一つ心になって生きていって欲しいとの、天の神、主からの懇願を受け入れ、この方をお迎えし、一つ一つのことを天の神、主と相談しながら、御思いをお聞きしながら、生きるようになるのだそうです。
新しい生き方を。
今日も。