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風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

とりなす者を待っておられて

アモスは言った。
「主なる神よ、どうぞ赦してください。
  ヤコブはどうして立つことができるでしょう。
    彼は小さいのです。」
 主はこれを聞いて思い直され、
   「このことは起こらない」と言われた。アモス書723
 
 常に“霊”によって祈り、
すべての聖なる者たちのために、
絶えず目を覚まし根気よく祈り続けなさい。エフェソ書618
 
      (ローズンゲン日々の聖句7/11;月)
 
 天の神、主、「わたしはあるという者」と名のられる方がアモスを預言者として立てて、おっしゃったのだそうです。
 「イスラエルのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取り消さない。
彼らが金と引き換えに正しい者を売り、一足のくつのために貧しい者を売ったからだ。
彼らは弱い者の頭を地のちりに踏みつけ、貧しい者の道を曲げ、父と子が同じ女のところに通って、わたしの聖なる名を汚している。
彼らは、すべての祭壇のそばで、質に取った着物の上に横たわり、罰金を取り立てたぶどう酒を彼らの神の宮で飲んでいる」(アモス268)と。
 
 「わたしもまた、あなたがたのあらゆる町で、あなたがたの歯をきれいにしておき(食べる物をなくして)、あなたがたのすべての場所でパンに欠乏させた。
それでも、あなたがたは、わたしのもとに帰って来なかった。
 ――主のみ告げ―― 
わたしはまた、刈り入れまでに三か月あるのに、あなたがたには雨をとどめ、一つの町には雨を降らせ、他の町には雨を降らせなかった。一つの畑には雨が降り、雨の降らなかった他の畑はかわききった。
2、3の町は水を飲むために、一つの町によろめいて行ったが、満ち足りることはなかった。
それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった。
 ――主のみ告げ―― 
わたしは立ち枯れと黒穂病で、あなたがたを打った。
あなたがたの果樹園とぶどう畑、いちじくの木とオリーブの木がふえても、かみつくいなごが食い荒らした。
それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった。」(469
 
 「主を求めて生きよ。
善を求めよ。悪を求めるな。
そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたが言うように、万軍の神、主が、あなたがたとともにおられよう。
悪を憎み、善を愛し、門で正しい裁きをせよ。
万軍の神、主は、もしや、ヨセフの残りの者をあわれまれるかもしれない」(561415)と。
 
 そして、天の神、主が、アモスに、王が刈り取った後の二番草が生え始めたころ、いなごを造っておられ、そのいなごが地の青草を食い尽くそうとしていることを示されたとき、アモスは、主に願って言ったのだそうです。
「神、主よ。どうぞお赦しください。ヤコブはどうして生き残れましょう。彼は小さいのです。」
すると、主はこのことについて思い直し、「そのことは起こらない」と主は仰せられたのだそうです。
 
 出エジプトのときも、ホレブの山で、イスラエルの民は、「主の仰せられたことはみな行い、聞き従います」と言いながら(出エジプト24:7)、モーセが山から下りて来るのが遅いと、「さあ、私たちに先立って行く神を造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから」とアロンに迫り、金の子牛の像を造らせて、これに全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえを供え、そして、民はすわっては飲み食いし、立っては、戯れたのだそうです。
 
 それで、神である主は、モーセに、この民を滅ぼすと言われたのですが、モーセが、滅ぼさないよう執り成すと、これを受け入れ、処罰を止められたのだそうです(出エジプト32135)。
 
 
 天の神、主、「わたしはあるという者」と名のられる方は、「われわれのかたちとして、われわれに似せて」造った(創世記Ⅰ:26)私たち人間が、それよりももっと素晴らしい者になろうとして「神の一人のようになり、善悪を知る者になって(創世記3:522)、ご自身から離反し、そむき、対抗する者になってしまったとき、これを処罰しないで、身代わりの者を立てて、身代わりの者を処罰し、私たち人間を造られた元の場に回復させようと思われたのだそうです。
 
 それで、ご計画の時が満ちて、御子である方が女の子孫として(創世記315)、人間イエスとして、人の世に来られ、すべての人間のすべてのそむきの責任を背負って十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうです(ヨハネ19:1~30)。
 
 天の神、主は、これを受け取る者を、その「生まれたときからの霊」を処刑済み、処罰済みの手続きをしてくださって、受け入れる者に、もう一人の方、「聖である霊」と呼ばれる方をお遣わしくださり、この方によって、ご自身の一人一人に思っておられる御思いを、一人一人の心に書き付け、受け入れる者がご自身と同じ思いを思い、心を一つにして生きられるようにしていてくださるのだそうです。
 
 ちょうど、食べた食物がその食べた人と一つになり、その人はその食べた食物と一つになっているように(ヨハネ64756)。
 
 それで、この方を受け入れた者は、この方によって「父である神」と同じ思いを思う者にしていただけて、「父である神」が願っておられることを願い、「父である方」が思っておらることを、希望をもって、アモスモーセのように執り成し続ける者にもしていただけるのだそうです。
 
 (参議院議員選挙が終わり、都知事選が控えていますけれど、「上に立つ者のためにもとりなし祈るように」(Ⅰテモテ2:1)とも勧めておられるのですね。)
 
今日も。