風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

恵みが与えられ、聞く人の役に立つ言葉を

私は言いました。

 「私の道を守ろう。

   舌で過ちを犯さぬように。」詩編39:2

 

 ただ、聞く人に恵みが与えられるように、

その人を造り上げるのに役に立つ言葉を、

必要に応じて語りなさい。エフェソ書4:29

 

      (ローズンゲン日々7/13;水)

 

 心に満ちることが口から出てくるのですね。

それで、口を制するには心の思いを変えるのが近道なのだそうです。

 

 心が思っているのに、口だけを押えて、言わないように努力していると、心が内に燃えて苦しくなり、いつか、爆発して相手を余計に傷つけたりしてしまうもののようです。

 

 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、パウロを通して仰られます。

「人を欺く情欲によって滅びていく古い人を脱ぎ捨てるべきこと、

心の霊において新しくされ、

真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした」(エペソ4:22~24)と。

 

 古い人、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」(創世記3:22)となっている「生まれた時からの霊」という自分自身を、どのようにして脱ぎ捨てるのか。

 

 我が国においては、ある人は、座禅を組み、滝に打たれて、古い自分から脱却しようと努力しました。

人の道を教え、道徳教育に力を入れようと努力している方々もいます。

 

 今から3500年ほど前、天の神、主、「わたしはある」と名乗られる方は、一人の人アブラハムを選び取り、この人の子孫をエジプトに寄留させて、200万人とも言われる一つの民族に成長させてエジプトから取り出し、モーセを通して律法を示し、民は「主の仰せられたことはみな行い、聞き従います」と答えて契約を結んだのだそうです(出エジプト24:7)。

 

 けれども、それからの800年ほどの歴史においてイスラエルの民は、自分の思う道を行くばかりで、遣わされた預言者を通しての呼びかけにも応じることをせず、不正と搾取、暴虐が満ちることになり、天の神、主は、これ以上悪が満ちて、滅ぼしてしまうことがないようにと、アッシリア帝国バビロニア帝国を用いてこの民を打たれることになったのだそうです。

 

 律法を自分の力で行う道においては、

「義人はいない。ひとりもいない。

すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となっている」(詩篇53:3、ロマ3:10~12)ことが明らかになるばかりだったのだそうです。

 

 それで、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、最初から持っておられたご計画を実行し、もっと完全な道を、ご自身の側で用意し、プレゼントとして私たちに差し出していてくださるのだそうです。

 

 そのご計画は、御子である方を、女の子孫(創世記3:15)、人間イエスとして人の世に送り、この方をすべての人間の身代わりとして立て、すべての人の的外れの責任をこの方の上においてこの方を処刑し、受け入れる者の「生まれた時からの霊」を処刑済み、死んだものと手続してくださるというものだったのだそうです。

 

 そのうえで、受け入れる者に、もう一人の方、「聖である霊」と呼ばれる方を派遣し、この方によって受け入れる者の心に、「父である神」の一人一人に思っておられる御思いを書き付け、受け入れる者の心の思いをご自身の思いに取り替え、一新してくださる(ロマ12:1~2)というご計画なのだそうです。

 

 今から2000年ほど前、イエスが十字架刑で処刑されるというこの計画が実行され、「聖である霊」と呼ばれる方が受け入れる者に来てくださる道が完成している今、この方をお迎えするなら、私たちも、人を裁き、批判し、傷つけ、引きずり下ろして、自分がその人より優秀な者であることを証明したい、いいものは全部自分一人で独占したいばかりの「生まれた時からの霊」という自分自身を、処刑されたもの、死んだものとしていただき、脱ぎ捨てられるのだそうです。

 

 そして、「聖である霊」と呼ばれる方から来る、聞く人に恵みが与えられ、その人が造り上げられるのに役立つ言葉を、その人の必要な時に、その人の必要に応じて語る心へと切り替えていただけるのだそうです。

神の民、イスラエルだけでなく、すべての国の人が(使徒10:21~36)。

 

今日も。