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風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

一緒に出掛けて下さるのだそうです。あの方が。

主よ、
 私の力、私の砦、
  苦難が襲う時の逃れ場。エレミヤ書1619
 
 ヤイロが来て、
イエスを見ると足元にひれ伏して、しきりに願った。
「私の幼い娘が死にそうです。
おいでになって手を置いてやって下さい。
そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」
そこで、イエスは彼と一緒に出かけて行かれた。マルコ52224
 
      (ローズンゲン日々の聖句7/16;土)
 
 「人事を尽くして天命を待つ」とよく言われます。
私たち、自分の力を頼み、苦難のときも自分で何とか解決しようとするのですね。
 
 自分でやっているように思っていますが、実は、その自分でやる力も、理性も、自分自身の存在自体、すべて天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方から頂いているものなのですね。
 
 私たち、「神の一人のようになろう。善悪を知る者になろう」(創世記3:5、22)として、天の神、主に対抗し、あるいはこの方を無視しています。
 
 しかし、山のような困難が立ちふさがり、自分の理性、自分の力ではどうすることもできなくなり、詮方尽きたとき、目を天に向けることができ、「私の力、私の砦、苦難のときの逃れ場」となっていてくださる方に心を向けることができるということもあるようです。
 
 
 ヤイロ。
会堂管理者として、当時、社会的に高い位置にありながら、娘の、死に瀕した病という出来事によって、「ナザレからなんの良い者が出ようか」と言われているイエスを、神の御子、キリストと信じて、その足元にひれ伏し、しきりに願ったのだそうです。
「この方は、今、死にかけている娘の病気を直すことができる方」と信じて。
 
 そして、イエスは、その願いを受け入れ、一緒に出かけてくださり、死んでしまったその娘を生き返らせて両親に渡されたのだそうです。
 
 エジプトを出たイスラエルの民も、天の神、主、「私はあるという者」と名乗られる方が、会見の天幕の上に昼は雲の柱、夜はその雲の中の火というかたちで一緒にいてくださったのだそうです。
そして、雲が留まっている時、民も留まり、雲が幕屋から上ったとき、民も旅立ったのだそうです(出エジプト403438)。
 
 その、イスラエルの民の目指すところは約束の、乳と蜜の流れる地だったのですが、今の私たちの目的地は、天の神、主の御座の前の大群衆の賛美が鳴り響く、「小羊の婚宴」の席なのですね(黙示録19:4~9)。
 
 私の力、私の砦、苦難のときの逃れ場である「聖である霊」と呼ばれる方が、そこに着くまで、受け入れる者と一緒に出かけてくださるのだそうですから。
今日も。