風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

新しい契約の中で生きるようにと

光の子として歩みなさい。
 光から、あらゆる善意と正義と真実が生じるのです;。エフェソ589
      (7/17の週の聖句)
 
 主はご自分の民に贖いを送り、
契約をとこしえのものと定められた。詩編1119
 
 群衆は、口のきけない人が話すようになり、
体の不自由な人が治り、
足の不自由な人が歩き、
目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、
イスラエルの神を賛美した。マタイ1531
 
      (ローズンゲン日々の聖句7/17;日)
 
 私たち人間が造られた最初のとき、私たち人間と造り主である天の神、主、「私はあるという者」と名乗られる方との関係は明るい、隠し立てのない、思いを同じくし、心を一つにする関係だったのだそうです(創世記1:2631)。
父である神、御子である神、聖である霊と呼ばれる神が自由意思で、自発的に、愛と尊敬によって一つになっておられるように。
 
 けれども、最初の人、アダムとエバが、その造られた場に留まっていないで、もっと素晴らしくなろう、神のようになり、善悪を知る者になって(創世記3522)、自分の実態、自分が裸な者、全部、自分のすべては造り主から頂いているもので、自分自身によるものは一つもないことが見えるようになり、天の神、主から身を隠し、自分の裸、自分に何もないことを隠すようになったのだそうです(創世記378)。
 
 私たち人間は、アダムの子孫として、アダムのこの性質を受け継いでいるのだそうです。
それで、天の神、主との明るい関係が切れ、自分の実態を隠す暗やみの存在となっているようです(エペソ58)。
 
 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、天地創造の初めからのご計画のとおりに(エペソ14)贖い(あがない、代価を支払って買いもどすこと)を人の世に送り込まれたのだそうです。
 ご計画のときが満ちて、御子である神、「神のことば」と呼ばれる方が人となって、「女の子孫」として人の世に来られ(創世記3:15、ヨハネ1:114)、およそ33歳の頃、ご計画のとおりに、私たち、すべての人間の身代わりとなり、すべての罪の責任を背負って十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうです(ヨハネ19130)。
 
 そして、これを受け入れる者の「生まれたときからの霊」、「神の一人のようになり、善悪を知る者になっている霊」を処刑されたものと手続きしてくださるのだそうです(ロマ611)。
 
 そのうえで、もう一人の方、「聖である霊」と呼ばれる方が、受け入れる者に来てくださって、受け入れる者は、心に「父である神」の御思い(律法)を書きしるしてもらい(エレミヤ313134)、「父である神」が一人一人に思ってくださっている御思いのとおりに生きる者に(エゼキエル362528)していただけるのだそうです。
 
 それで、受け入れる者は、このままで、今の自分の実態、罪の本心になりきって(単一になって)、大胆に、はばかることなく(ヘブル1019)御座の前に進み出、思い煩いや罪の思いのすべてを御前に投げ出し、広げて、見ていただき、知っていただき、光の中に差し出して、光の中の出来事、知っていただいている、見ていただいている出来事、明るい出来事にしていただけるのだそうです。
 
 天の神、主、「私はあるという者」名乗られる方は、神の御子イエスの処刑によって、私たち人間の贖いを人間の歴史のただ中で完成し、新しい契約(エレミヤ3131)をとこしえに効力のあるものとされたのだそうです。
 
 そして、受け入れる者は、イエスがそうであったように、父である神の愛の御思いのとおりに(ヨハネ1412)、病気の人をいやし、解放する者ともしていただけるのだそうです。
 
 「聖である霊」と呼ばれる方は、受け入れる者に来てくださって、受け入れる者をとおして働かれるのだそうですから。
変わりなく。
この新しい週も。