風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

思い上がる私に死んで、軽やかに生きるのだそうです。自由人として。

立ち上がってください、主よ。

  人間が思い上がるのを許さないでください。詩編9:20

 

 神は、

昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために

裁きを行わないことがあろうか。ルカ18:7

 

      (ローズンゲン日々の聖句7/27;水)

 

 人は死ぬものなのですね。

けれども、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になった人間は(創世記3:5、22)、神が永遠の方であるように、自分はいつまでもいるかのように思っているのですね。

 

 また、神が「わたしはある。わたしはあるという者」(出エジプト3:14)であられるように、自分も、在ろうと思うとおりに「在る」ことができる者であるかのように、

あるいは、在ることができるべきだと思っているのですね。

 

 けれども、人間は死ぬもので、持っているもののすべてを残していく者であり、

その時、すべての計画は挫折してしまう者なのですね。

 

 私たちは、自分が存在するために必要なものの一つでも、自分で作ったものはなく、

すべて「わたしはある。わたしはあるという者」と名乗られる方が用意していてくださって、与えていてくださるものなのですね。

 

 まさしく、使徒パウロが言うように、

私たちは、「神の中に生き、動き、また存在している者」(使徒17:28)なのですね。

 

自分はそういう者だと認めていくのが人間の正しい在り方なのだそうです。

 

 天の神、主、「わたしはある。わたしはあるという者」と名乗られる方は、夜昼神を呼び求めているご自分の民のために裁きをつけないで、いつまでも放っておかれることはないのだそうです。

 ご自分の計画の時に、必ず、決着をつけてくださるのだそうです。

 

 

 私たち、すべてのことはしてもよいのだそうです。

しかし、すべてのことが有益とは限らないのですね。

 

すべてのことは、してもよいのだそうです。

しかし、すべてのことが徳を高めるとは限らないのですね。

 

 もし、私たちが、「これをしないではいられない」のであれば、その人は自由な人ではなく、そのしないではいられないことの奴隷なのだそうです。

 

私たちが自由であるなら、「有益」なこと、「徳を高める」ことだけをすることができ、

「自分の利益を求めないで、他人の利益を心がける」こともできるのだそうです(Ⅰコリント10:23~31)。

 

 キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださったのだそうです(ガラテヤ5:1)。

 

イエスの十字架刑での処刑を、「生まれた時からの霊」という自分自身の処刑としていただき、

3日目に墓より、新しい霊のからだに復活し、天の父である神の右の座に帰られたイエスが派遣してくださる「聖である霊」と呼ばれる方を受け入れ、

この方によって、「父である神」が私たちひとりひとりに思っていてくださる御思いを心に書き付けていただき、

その御思いによって生きる者は、

キリストの自由をいただき、自由人とて生きるのだそうです。

軽やかに。

今日も。