風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

御心を行うために、力も、すべての良いものを準備していて下さる方が

どうか主が
  民に力をお与えになるように。詩編2911
 
 私たちの主イエスによって、
御心を行うために、
すべての良いものを
あなたがたに備えてくださるように。ヘブル1321
 
 哀歌5122
 マルコ64556
      (ローズンゲン日々の聖句8/5;金)
 
 「聖である霊」と呼ばれる方によって心に来た、「父である神」が私たち一人一人を通してしようと思っていてくださる御心を行うための力、良きものを、神は用意し、備えていて、与えてくださるのだそうです。時宜にかなって。
 
 私たちは、天の神、主、「わたしはある。わたしはあるという者」と名乗られる方と思いを同じにし、一つ心となり、行動を一つにし、存在を一つにする者を、と望まれながら(創世記126)、その造られた場に留まることをせず、もっと素晴らしい者になろうとして、神に逆らい、神に対抗して、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっているものなのだそうです(創世記3522)。
 
 けれども、その結果は、哀歌5章でうたわれているような、すべてのものを失い、そしりを受けるものとなるばかりなのだそうです。
 
 けれども、もし、神が打たれることなく、思いのままに、順調にいったなら、私たちは、いよいよそむき、永遠の滅びという取り返しのつかないところにまで突き進むことでしょう。
 
 この時のイスラエルのように、神の愛による懲らしめに遭い、
「なぜ、いつまでも、私たちを忘れておられるのですか。
私たちを長い間、捨てられるのですか。
主よ。あなたのみもとに帰らせてください。
私たちは帰りたいのです。
私たちを昔の日のように新しくしてください。
 
それとも、あなたはほんとうに、私たちを退けられるのですか。
きわみまで私たちを怒られるのですか」(哀歌52022)と、
 
天の神、主に帰るなら、
天の神、主は、ご自身の側で御子である方の命を犠牲にして私たちのそむきの罪を処罰済みにし、そむくばかりの、私たち、「生まれたときからの霊」を処刑済みの手続きをしてくださっていて、「聖である霊」と呼ばれる方を受け入れる者に派遣し、この方によって、受け入れる者がご自身と同じ思いを思い、ご自身と心を一つにし、行動を一つにする道を用意していてくださっていることを体験し、知ることになるのだそうです。
 
 その、心に来た御思いを行うための力も、必要なものも、すべての良いものを、
天の神、主、「わたしはある。わたしはあるという者」と名乗られる方は
準備し、備えていてくださるのだそうです。
 
 イエスが、必要なら湖の上を歩いて弟子たちのところへ来られ、
人々が、イエスがおられると聞いた場所へ、病人を床に載せて運んで来、
イエスが入って行かれると、村でも町でも部落でも、
人々は病人たちを広場に寝かせ、
せめて、イエスの着物の端にでも触らせてくださるようにと願い、
さわった人々はみな、いやされたように(マルコ64556)。
今日も。
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