風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

私から、ただで、買いなさい

主はこう言われた。

「いつまで、あなたは

   わたしの前に身を低くするのを拒むのか。」出エジプト10:3

 

 あなたは、

「私は金持ちだ。

満ち足りている。

何一つ必要な物はない」と言っているが、

自分が惨めな者、

哀れな者、

貧しい者、

目の見えない者、

裸の者であることが分かっていない。」黙示録3:17

 

 サムエル上17:38~51

 マルコ7:31~37

      (ローズンゲン日々の聖句8/9;火)

 

 エジプトの王パロは、モーセを通して語られる天の神、主、「わたしはある。私はあるという者」と名乗られる方の言葉に聞き従おうとせず、無視する態度をとり続けていて、大きな災いを受けることになったのだそうです。

 

 私たちも、自分は富んでいる、豊かになった、乏しい者は何もないと思っているときは、この、天の神、主、「わたしはある。わたしはあるという者」と名乗られる方の語り掛けを聞こうとしない者のようです。

 

 天の神、主は言われるのだそうです。

私たちが、自分の力で得たと思っているそれらのものも、実は、全部、「わたしが用意し、与えているものだ」と。

 

 だから、「ほんとうの自分は、惨めで、哀れで、貧しくて、見えていない者で、裸の者であることを認めて、豊かになるために、わたしから、火で精錬された金を、裸の恥を現さないために着る白い衣を、目が見えるようになるために目薬を、ただで買いなさい。わたしが全部用意しているから」と。

 

 「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、わたしに立ち返りなさい。わたしに心を開きなさい」(黙示録3:14~20)と。

 

 天の神、主は、私たちを、立ち返らせ、受け入れる者の「神のようになろう。善悪を知る者になろう」とする(創世記3:5、22)「生まれた時からの霊」を、イエスの十字架刑での処刑に合わせて処刑されたもの、死んだものとし(コロサイ2:20)、「聖である霊」と呼ばれる方を派遣して、この方の働きによって、ご自分と思いを一つにし、心を合わせる者にして(エゼキエル36:25~31)、私たちを通して大きな御業をなさろうと思っておられるようです(ヨハネ14:12)。

 

 ダビデが、神に信頼して戦場に出て行ったときに、その年若い、少年のダビデを通して、巨人ゴリアテをたおして、イスラエルに大勝利をもたらしたように(サムエル上17~51)。

 

 また、イエスが、人々の願いを受け入れ、深く嘆息しながら、耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口のきけない人を話せるようにして帰されたように(マルコ7:31~37)。

今日も。

 

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