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風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

命の水が欲しい者は、それをただで受けなさい

苦しむ人、貧しい人は水を求めても得ず、

  渇きによって舌は干上がる。

 主である私が彼らに答えよう。イザヤ書41:17

 

 渇いている者は来るがよい。

命の水がほしい者は、値なしに飲むがよい。黙示録22:17

 

 使徒9:31~35

 マルコ9:14~29

      (ローズンゲン日々の聖句8/17;水)

 

 苦しんでいる人、貧しい人、渇きによって舌が干上がっている人に、わたしが答えると、天の神、主、「わたしはある。わたしはあるというものだ」と名乗られる方は言われるのですね。

 

 イエスは言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。

わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、

その人の心の奥底(はらわた)から、

生ける水の川が流れ出るようになる」と。

 

 そして、使徒ヨハネは、

「これは、イエスを信じる者が後になってから(イエスの十字架刑での処刑が完了し、新しい霊のからだに復活され、天の父である神の右の座に帰られたとき)受ける御霊のことを言われたのである。

イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである」と解説しています(ヨハネ7:37~39)。

 

 十字架上で、「完了した」とおっしゃられ、霊を父である神にお渡しになったイエス。

ローマ兵がイエスのわき腹を槍で突き刺し、イエスの死亡が確認され、

すでに夕方になっており、日没とともに安息日が始まるので、急遽、近くにあった、アリマタヤのヨセフが自分のために掘っておいた墓に葬られ、

三日目の日曜日の早朝、女の弟子たちが墓に行った時には、すでに復活されており、

その後、40日に渡って、何度も弟子たちに現れ、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを弟子たちに示されたイエス(ヨハネ19:28~21:25、使徒1:3)。

 

 そして、イエスは、「エルサレムから離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。もう間もなく、あなたがたは聖霊バプテスマ(洗礼)を受けるからです」と言い置いて、弟子たちのみている前で、オリーブ山から、天の父である神の右の座に帰って行かれたのだそうです(使徒1:9)。

 

 それから10日後の、ペンテコステ(5旬節)の祭りの日、集まっていた120人ばかりの弟子たちに、約束の「御霊」、「聖である霊」と呼ばれる方が来られ、

弟子たちは、「聖である霊」と呼ばれる方が話させてくださる通りに、他の言葉で話しだしたのだそうです(使徒2:1~4)。

 

 ペンテコステ(五旬節)、

モーセを介して、律法(神の御思いを成文化したもの)が示され、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方と、エジプトを出て来たイスラエルの民との間に、契約が結ばれた、その記念日に、

新しい契約、受け入れる者に「聖である霊」と呼ばれる方が来られて、父である神の、私たちひとりひとりに思ってくださっている御思いを、受け入れる者の心に書き付けてくださり、受け入れる者が父である神と呼ばれる方と思いを一つにし、心を一つにして生きるようになる、との新しい契約(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~31)が発効したのだそうです。

 

 そして、弟子たちは、イエスがそうされていたように(マルコ9:14~29)、「聖である霊」が心に置いてくださる「父である神」の御思いのとおりに、病で苦しんでいる人を癒し、死人を生き返らせて人々に返し(使徒9:31~35)、イエスがしようと思われるわざをしていくようになったのだそうです(ヨハネ14:12)

 

 この「命の水」、「聖である霊」と呼ばれる方の御業は、2000年前の弟子たちだけに起こったことではなく、今、求める者に与えていただけるのだそうですね。

天の神、主は、「渇く者は来なさい。命の水がほしい者は、それをただで受けなさい」と呼び掛けておられるのだそうですから。

今日も。

 

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