風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

驚くべき御業と奇跡を心に留めながら

主の成し遂げられた驚くべき御業と奇跡を、
  主の口から出る裁きを心に留めよ。詩編1055
 
 御父がどれほど私たちを愛してくださるか、考えなさい。
それは、私たちが神の子と呼ばれるほどなのです。Ⅰヨハネ31
 
 イザヤ書571519
 マルコ94250
      (ローズンゲン日々の聖句8/20;土)
 
 主に感謝して、御名を呼び求めよ。
そのみわざを国々の民の中に知らせよ。
主に歌え。主にほめ歌を歌え。
そのすべての奇しいみわざに思いを潜めよ。
主の聖なる名を誇りとせよ。
主を慕い求める者の心を喜ばせよ。
主とその御力を尋ね求めよ。
絶えず御顔を慕い求めよ。
主が行われた奇しいみわざを思い起こせ。
その奇蹟と御口のさばきとを。
この方こそ、われらの神、主。
そのさばきは全地にわたる。(詩篇10517新改訳)
 
 
 父である神と呼ばれる方が、どれほど、私たちを愛してくださっているか。
私たちを、ご自身の子としてくださるほどに、なのだそうです。
 
 父である神の、「われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記126)との願いによって、
「父」である神、「御子」である神、「聖である霊」と呼ばれる神が、愛と尊敬によって、自由意思で、自発的に、心を一つにし、思いを一つにし、行動を一つにし、存在を一つにしていらっしゃる、その一つを現すひな型、モデルとなるような、その一つに加わるものをとの願いによって造られた私たち人間。
 
 けれども、最初の人アダムとエバは、その、神と一つになっているよりも、神のひとりのようになろう、自分一人の理性の判断で善悪を決定する者になろうとして、神にそむき、神に対抗する者になったのだそうです(創世記3522)。
 
 
 天の神、主は、全知、全能の方。
自由意思を持つ者として人間を創造した場合、人間が、その与えていただいた自由意思をもってご自分にそむく者になることは予測されていたのでしょうね。
 
 けれども、御子である神が、「そのときには、わたしが人となって人の世に行き、そのそむきの罪を負いましょう」と提案され、
聖である霊と呼ばれる神が、「御子である神によって、そむきの罪の処罰が終わったなら、わたしが行って、人の心に、父である神が人間ひとりひとりに持っておられる御思いを書き付け、受け入れる人間が同じ思いを心に持つ者にしましょう」と提案され、そして、「さあ、人を造ろう」(創世記126)ということになったようです。
 
 そして、アブラハム以降だけでも2000年の人間の歴史の流れの中で、御子である神が、「女の子孫」(創世記315)、人間イエスとして人の世に来られ、およそ33歳の頃、すべての人間のすべての罪を負って、ローマ兵の手によって十字架刑で処刑され、受け入れる者の罪を処刑済みとしてくださる道を開いてくださったのだそうです。
 
 イエスが処刑された過ぎ越しの祭りから、ちょうど50日目、ペンテコステ(五旬節)の祭りの日、待ち望んでいたイエスの弟子たち、120人ほどに、突然、約束の「聖である霊」と呼ばれる神が来られて、この方をお迎えした弟子たちは、この方が心に置かれた「父である神」の御思いのままに話し出し、行動するようになったのだそうです(使徒2:1~4)
 
 
 造り主である天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方を無視し、自分の理性を神とし、自分一人の善悪の判断のとおりを実現しようとする私たち。
の私たちを、なお、愛し続け、求め続け、呼びかけ続けて下さって、帰って来る者を、イエスの十字架刑に合わせて処刑された者と手続きしてくださり、ご自身の「子」の身分を与えてくださり、聖である霊と呼ばれる方によってご自分と思いを一つにし、心を一つにする者にしてくださるのだそうです。
 
 御子が命を捨てて完成してくださったこの救いのみわざを、この私たちが「神の子」とされる奇跡を心に留めるのですね。
 
 
 いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、
その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。
「わたしは、高く聖なる所に住み、
心砕かれて、へりくだった人とともに住む。
へりくだった人の霊を生かし、
砕かれた人の心を生かすためである。
わたしはいつまでも争わず、
いつまでも怒ってはいない。
わたしから出る霊と、
わたしが造ったたましいが衰え果てるから。
彼のむさぼりの罪のために、
わたしは、怒って彼を打ち、顔を隠して怒った。
しかし、彼はなおそむいて、
自分の思う道を行った。
わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう。
わたしは彼を導き、彼と、その悲しむ者たちとに、
慰めを報いよう。
わたしはくちびるの実を創造した者。
平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。
わたしは彼をいやそう」と主は仰せられる(イザヤ571519)のだそうです。
今日も。
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