安心できます。心に責められることがあるときも。
わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、
わたしにしてくれたことなのである。マタイ25:40
(8/21の週の聖句)
確かに私も知っている。
神より正しいと主張できる人間があろうか。
神と論争することを望んだとしても、
千に一つの答えも得られないだろう。ヨブ記9:2~3
わたしは
自分が真理に属していることを知り、
神の御前で安心できます。
心に責められることがあろうとも。
神は、私たちの心より大きく、
すべてをご存じだからです。Ⅰヨハネ3:19~20
ルカ10:25~37
詩編120
(ローズンゲン日々の聖句8/21;日)
小さい人たち、取るに足りないと思われるような人たちの一人に、
裸のとき着る者を与え、
病気のとき見舞い、
牢にいるとき訪ねたことを、
イエスは「わたしにしてくれたこと」だと言ってくださり、
「わたしの父に祝福された人たち。
世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい」
と言ってくださるのだそうです(マタイ25:31~40)。
私たちは、いわれのない、身に覚えのない苦しみに遭うことがあり、
そんな時、なぜ、こんな目に遭わないといけないのか、神と論じたいと思うようなときがあります。
天の神、主、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と名乗られる方は、その気持ちも、そのまま、ご自分に言って来ることを喜ばれる方なのだそうです(ヨブ42:8)
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、
「神の一人のようになろう。善悪を知る者になろう」(創世記3:5、22)として、
造り主である「わたしはあるという者」と名乗られる方と同じ思いになり、
一つ心になって生きる生き方を捨て、
この方に背を向け、対立し、この方の上に自分を置こうとする、
私たち、すべての人間のそむきの罪の罰を、
御子である方、イエスの上に置き、
イエスを十字架刑で処刑することで、
受け入れる者のそむきの罪を処罰済みと手続きしてくださるのだそうです。
それで、どんな罪の思いも、そのまま、この方の御前に差し出し、申し上げていけば、その罪の思いは、全部、イエスの十字架刑での処刑で、処罰済みになっていることを分からせてくださる
るのだそうです。
「わたしはあるという者」と名乗られる方は、
私たちに、イエスの十字架刑による罪の赦しを受け取り、
さらに、もう一人の助け主、「聖である霊」と呼ばれる方を受け入れて欲しいのだそうです。
「父である神」と呼ばれる方は、この方、「聖である霊」と呼ばれる方によって、受け入れる者の心に、ご自身の、その人に思っていらっしゃる御思いを置いてくださるのだそうです。
それで、その御思いについていく者は、この方が思っていらっしゃる、「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、神である主を愛し」、「隣人を自分自身のように愛してほしい」との御思い(ルカ10:25~37)、困っている人に対するあわれみの思いがl心に来て、言葉や口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛するようになり、
その部分においては、「わたしはある」という方と思いを一つにしていることが分かり、心安らかにされるのだそうです(Ⅰヨハネ3:13~24)。
自分自身の「偽りのくちびる、欺きの舌」も含めて。
この新しい週も。