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風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

心の包皮を取り除いて、未練なく与える心に

貧しい同胞に必ず与えなさい。
  与えるとき、心に未練があってはならない。申命記1510
 
 わたしの弟子だという理由で、
この小さな者の一人に、
冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、
必ずその報いを受ける。マタイ1042
 
 ヨハネ133135
 エレミヤ書32144
      (ローズンゲン日々の聖句9/2;金)
 
 天の神、主、「わたしはある。わたしはあるという者」と名乗られる方はおっしゃるのですね。
「わたしが、必ずあなたを祝福するから、あなたの隣人のひとりが、もし貧しかったなら、その人に対してあなたの心を閉じてはならない。また手を閉じてはならない。
進んであなたの手を彼に開き、その必要としているものを十分に貸し与えなければならない。
物惜しみして、これに何も与えないことのないよう気をつけなさい。
その人があなたのことで、主、「わたしはあるという者」といわれる方に訴えるなら、
あなたは有罪となる。
 
 必ず彼に与えなさい。
また与えるとき、心に未練をもってはならない。
このことのために、あなたの神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、
あなたのすべての働きと手のわざを祝福してくださる」(申命記15610新改訳)と。
 
 そして、イエスの弟子だという理由で、水一杯でも飲ませるなら、
イエスはそれをイエスご自身にしてくれたこととして見ていてくださり、
その人は決して報いに漏れることはないのだそうです。
 
 
 天の神、主、「わたしはあるという者」といわれる方に対抗し、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」となっている私たち、「生まれたときからの霊」から出て来る思いは、自分の持っているものは自分の力で得たもの(ダニエル430)、将来の必要も自分で確保しなければならい(ルカ121820)、だから与えたくないと未練を持ち、出すことを惜しむ思いです。
 
 けれども、イエスの十字架刑での処刑を、私の処刑としていただき、、私の「生まれたときからの霊」は処刑されたもの、死んでしまっているものと受け取った者、「心の包皮を取り除いた者」(エレミヤ32144)に来てくださる「新しい霊」とか「聖である霊」と呼ばれる方。
その方から来る思いは、造り主である天の神、主への信頼であり、貧しい者、困窮している人に未練なく貸し与える思いなのだそうです。
 
 心に、イエスの愛の思いが来て、互いに愛し合う思いになる(ヨハネ133135)、一新された新しい心((エゼキエル183031、ロマ122)にしていただけるのだそうです。
今日も。
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