幸福にし、喜びにしようと
わたしは、彼らと永遠の契約を結び、
彼らの子孫に恵みを与えてやまない。エレミヤ書32:40
私たちは、
キリストの恵みによって義とされ、
希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。テトス書3:7
フィリピ書1:19~26
エレミヤ書19:1~13
(ローズンゲン日々の聖句9/15;木)
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、
エレミヤを通して言われたのだそうです。
「陶器師の器が砕かれると、二度と直すことができない。
そのように、わたしはこの民と、この町(エルサレム)を砕く。
それは、彼らがわたしを捨てて、この所(ベン・ヒノムの谷)で、彼らも彼らの先祖も、ユダの王たちも知らなかったほかの神々にいけにえをささげ、このところを罪のない者の血で満たし、パアルのために自分の子どもたちを全焼のいけにえとして火で焼くため、バアルの高きところ(祭壇)を築いたからである。
このようなことは、わたしが命じたこともなく、語ったこともなく、思いつきもしなかったことだ」(エレミヤ19:1~13より)と。
そして、そう語ってもやめようとせず、自分の思う道を行く民を、ついに、バビロン軍を通して打とうとされるわけですけれど、そのとき、さらに、言われたのだそうです。
「それゆえ、今、イスラエルの神、主、「わたしはあるという者」と言われる方は、あなたがたが、『剣とききんと疫病により、バビロン王の手に渡される』と言っているこの町について、こう仰せられる。
『見よ。わたしは、わたしの怒りと、憤りと、激怒をもって散らしたすべての国々から彼らを集め、この所に帰らせ、安らかに住まわせる。
彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。
わたしは、いつもわたしを恐れさせるため、彼らと彼らの後の子らの幸福のために、彼らに一つの心と一つの道を与え、わたしから離れず、彼らを幸福にするため、彼らをとこしえの契約を結ぶ。
わたしは、彼らがわたしから去らないようにわたしに対する恐れを彼らの心に与える。
わたしは彼らを幸福にして、彼らをわたしの喜びとし、真実をもって、心を尽くし思いを尽くして、彼らをこの国に植えよう。』
まことに、主はこう仰せられる。
『わたしがこの大きなわざわいをみな、この民にもたらしたように、わたしが彼らに語っている幸福もみな、わたしが彼らにもたらす。
あなたがたが、『この地は荒れ果てて、人間も家畜もいなくなり、カルデヤ人に手に渡される』と言っているこの国で、再び畑が買われるようになる』(エレミヤ3236~43)と。
私たち、イスラエルの国籍がなく、異邦人で、この神を知らず、約束とも縁のない者でした。
「愚かなものであり、不従順で、迷った者であり、いろいろな欲情と快楽の奴隷になり、悪意とねたみの中で生活し、憎まれ者であり、互いに憎み合う者でした。
しかし、(イエスによって)私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛が現れたとき、神は、私たちが行った義のわざによってではなく、(義のわざの全くない者なのに)ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。
これをいただいた者は、パウロが言うように、生きるに死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることを願い、私が生きることがキリストが生きることになるように、キリストと思いを一つにすることを願っていくのだそうです。
そして、死ぬことも、また益。
この世で生きているよりもはるかにまさった出来事にあずかることになるのだそうですから(ピリピ1:20~23)。
この願いと望みの中で、今置かれている場に、私を通してしようと思っていらっしゃる御思いの中に踏み出していくのですね。私たち。
今日も。