すべての人の救い、啓示の光として
その世代が皆途絶えて先祖のもとに集められると、その後に、
主を知らず、
シメオンの祈り:
これは万民のために整えてくださった救いで、
異邦人を照らす啓示の光、
エレミヤ書17:13~17
エレミヤ書43:1~13
(ローズンゲン日々の聖句10/7;金)
けれども、やはり「神のひとりのようになり、善悪を知る者になろう」(創世記3:5、22)とする者であって、
約束の地を目の前にして、「あなたの神、主は、この地をあなたの手に渡されている。上れ。占領せよ」との言葉に従わず、
「主は私たちを憎んでおられるので、私たちをエジプトの地から連れ出してエモリ人の手に渡し、私たちを根絶やしにしようとしておられる」とつぶやき、上ろうとしなかったのだそうです(申命記1:20~40)。
そして、ヨシュアもその世代の人も死に、新しい世代になったときも、
彼らは、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方に聞き従おうとはせず、
自分の善悪の判断のままを行い、
エジプトの地から自分たちを連れ出した父祖の神、主を捨てて、
ほかの神々、彼らの回りにいる国々の民の神々に従い、それらを拝む者になっていったのだそうです。
天の神、主の啓示を受け、律法を与えられた神の民にあってこのようですから、律法を持たず、天の神、主を知らない異邦人にあっては、なおさらのこと、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」として、天の神、主に聞こうとせず、自分の理性による善悪の判断のままに行動し、圧政と暴虐が満ちる世界となっていったようです。
そのとき、シメオンという人が近づいて来て、イエスを腕に抱き、神をほめたたえて言ったのだそうです。
「私の目があなたの御救いを見たからです。
御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、
このイエスが、およそ、33歳の頃、十字架刑での処刑を受けてくださり、
私たち、天の神、主、「わたしはあるという者」と言われる方から、「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」と願われて造られていながら、もっと上の者になろうとし、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になって、自分の理性による善悪の判断のとおりに生き、
造り主である天の神、主にそむくものになっている「生まれたときからの私」という霊を処刑済み、死んだものとする道を開いてくださったのだそうです。
そして、受け入れる者に、新しく、「聖である霊」と呼ばれる方を派遣してくださって、この方によって、「父である神」と呼ばれる方が私たちひとり一人に思っていてくださる御思いを、受け入れる者の心に置いてくださり、「父である神」と同じ思い、一つ思いになって生きるようにしてくださるのだそうです。
受け入れる者は、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている、「生まれたときからの私」という霊から心に来る思いを、「死んだもの」から来る思いと認めて(ロマ6:11)、「聖である霊」から来る思いを自分の思いとして、御思いのままに生きるのだそうです。
今日も。