風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

与えて頂いている賜物を生かして

主なる神の御前に沈黙せよ。
  主の日は近づいている。ゼファニア書17
 
 身を慎んで、よく祈りなさい。
何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。
愛はおおくの罪を覆うからです。Ⅰペテロ478
 
 レビ記19131318
 Ⅱコリント21217
      (ローズンゲン日々の聖句10/20;木)
 
 私たちは、今の世がいつまでも続くものと思って行動しています。
 しかし、主なる神が一人ひとりを、それぞれのしわざに応じて審判される日が近づいているということのようですね。
主なる神は、心の中で「主は幸いも、災いもくだされない」と言っている者を罰せられる、そういう日が来ると。
 
それで、使徒ペテロも言っています。
「万物の終わりが迫っています。
だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。
不平を言わずにもてなし合い、神のさまざまな賜物のよい管理者として、一人ひとりが、授かっている賜物を生かして、互いに仕えなさい(Ⅰペテロ4710)と。
 
 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、一つのご計画のもとに、私たちひとり一人に対して、ひとり一人に違ったイメージを持っておられ、能力や環境、状態など、その、それぞれのイメージのとおりに私たちひとり一人を造ってくださったのだそうです。。
そして、してほしいと願っておられることが一人ひとり違うのだそうです。
 
 その一人ひとりの働きの全体、この人類の全歴史の全体で完成する一つのイメージがあるということのようです。
 
 それで、一人ひとりに賦与されている賜物(能力や環境や状態など)がよく生かされて、ご計画のとおりに用いられるよう、期待しておられるのでしょうね。
 
 私たちは、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっていて、一人ひとりがそれぞれの善悪の判断のままに生き、対立、対抗し、バラバラになっている者です。
 
 けれども、イエスの十字架刑での処刑を私自身、「生まれたときからの私」という霊の処刑としていただいて、死んだものとしていただき、
墓に葬られ、三日目に、新しい「霊のからだ」に復活し、もと、おられた、天の父である神の右の座に帰られたイエスが、天の父から受けて、もう一人の助け主を私たちに派遣してくださる、
そのお方、「聖である霊」と呼ばれる方は、受け入れる者の心に、父である神が創造の初めから私たちひとり一人の思っていてくださる御思いを書き記してくださるのだそうです。
 
 それで、受け入れる者は、父である神が一人ひとりに思っていてくださる御思いと同じ思いを思い、一つ心、一つイメージを共有する者にしていただけて、全宇宙、全歴史に関わる壮大な一つの計画の中で生きる者にしていただけるのだそうです。
 
 そして、天の神、主、『私はある』と言われる方が聖であるように、受け入れる者は聖なる者としていただき、父と母を敬う心を、天の神、主を求め、愛する思いを、貧しい人、寄留している人を心にかけ、自分のために他の人をそこないたくない思いにもしていただけ、
隣人をしいたげ、奪い取ったり、雇い人の労賃を支払わなかったり、耳の聞こえない者の悪口を言ったり、目の見えない人の前に障害物を置いたり、弱い者をかたよってかばったり、力あるものにおもねって、判断を曲げたり、中傷、偽証をし、兄弟を憎んだり、自分で復讐する心を死んだものとし、「聖である霊」と呼ばれる方から来る、隣人を愛する新しい心に取り換えていただけるのだそうですね(レビ19131318)。
今日も。
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