風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

御顔を、御思いを尋ね求めて

主の御力を尋ね求め、
  常に御顔を求めよ。詩編1054
 
 主よ、
私たちにも祈りを教えてください。ルカ111
 
 Ⅰヨハネ31924
 Ⅱコリント51621 
       (ローズンゲン日々の聖句10/28;金)
 
 イエスが、天の「父である神」に祈っている、「父」と語り合っているのを見て、弟子が「私たちにも祈りを」と言ったのだそうです。
 
イエスは、答えて、こう祈りなさいと言われたのだそうです。
「天にいます私たちの父よ。
御名があがめられますように。
国が来ますように。
みこころが天で行われるように地でも行われますように」(マタイ6910新改訳)と。
 
 私たち、「お祈り」というと、「こうしてください。ああしてください」と願い事を並べ立て、「祈りました。ハイ、おしまい」というようなことをしがちです。
 
 それもありますが、さらに祈りとは、「御顔を求める」、神、ご自身を求める、みこころが天で、天使たちの間で、行わるように、地でも、この私にも、行われますように」と願っていくことのようです。
 
 私たちの罪を背負って十字架刑で処刑を受けてくださり、
復活し、天の「父である神」の右の座に帰られたイエスが派遣してくださる「聖である霊」と呼ばれる方をお迎えるなら、私たちが神のうちにおり、神が私たちのうちにいてくださる者にしていただけるのだそうです。
 
 そして、「父である神」がひとり一人に思っていてくださる御思いを心に置いていただき、「父である神」と同じ思い、一つ心にしていただくので、神が愛しておられる、その愛の思いとも一つ思いとしていただけるのだそうです。
それで、私たちも、イエスが私たちを愛してくださっているように愛し合うようになるのだそうです(Ⅰヨハネ324)。
 
人を押しのけて、自分が一番になりたい本性の「生まれたときからの私」という霊を、イエスの死に合わせていただいて、死んだもの、古いものとしていただき、
「生まれたときからの私」という霊から来る思いを、死んだものから、古いものから来た思いであると認めて、横に置いておき、
「聖である霊」から来る思いを私の思いとして生きるのだそうです。
新創造された、新しくされた、新しく生まれた(ヨハネ3:18、Ⅱコリント517)者として。
 
もはや、自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方(イエス)の御思いのとおりに生きる者に(Ⅱコリント5:15)。
今日も。
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