風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

多くの人の身代金として自分の命を献げるために

わたしの僕は、

  多くの人が正しい者とされるために、

    彼らの罪を自ら負った。イザヤ書53:11

 

 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、

また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために

来たのである。マルコ10:45

 

 黙示録13:1~10

 Ⅱコリント8:1~15

      (ローズンゲン日々の聖句11/2;水)

 

 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、イザヤを通して預言されたのですね。

多くの人が正しい者とされるために、みずから、進んで、彼らの罪の罰を負う者が出ると。

 

 それから700年ほどの時を経て現れたイエスは言われたのだそうです。

「人の子」(イエスはご自分のことをよくこう言われた)が来たのは、多くの人の身代金、贖い(あがない、買い戻し)の代金として自分の命を献げるためなのだ、と。

 

 そして、そのことばのとおりに、避けることなく、十字架刑で処刑される道を進まれたのですね。

イエスが命を献げられたことによって、私たちのそむきの罪が処罰済みとしていただけて、

イエスが派遣してくださる「聖である霊」と呼ばれる方をお迎えする者は、その心に、「父である神」が私たち一人ひとりに思っておられる御思いを置いていただけるので、受け入れる者は、「父」と同じ思いを思い、一つ心になって生きるようになるのだそうです。

「父である神」と心を一つにして歩みものに。

「小羊のいのちの書」に名を記され(黙示録13:8)、神の家族としていただいて。

今日も。

 

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