風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

誰が、我々に代わって行くだろうか。

私は主の御声を聞いた。

  「誰を遣わすべきか。

    誰が我々に代わっていくだろうか。」

 

 私は言った。「私がここにおります。

   私を遣わしてください。」イザヤ書6:8

 

 一人一人に“霊”の働きが現れるのは、

全体の益となるためです。Ⅰコリント12:7

 

 エレミヤ書18:1~10

 Ⅱコリント11:1~15

      (ローズンゲン日々の聖句11/8;火)

 

 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、「我々に代わって行く者、代わりにやってくれる者を求めておられるようですね。

 

 創造の初めにもおっしゃっておられるのですね。

「我々に似るように、我々のかたちに」造られた人間が、「海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのもの」を、我々に代わって、我々と心を一つにして支配(統治)するように(創世記1:26)、と。

 

 私たち、天の神、主との、心を一つにしていく場に留まらないで、もっと素晴らしい者に、「神のようになり、善悪を知る者」になろうとして(創世記3:5、22)、天の神、主に対立、対抗する者になっている者です。

 

 けれども、イエスによる贖(あがな)い、イエスが十字架刑での処刑を受けてくださって、私たちに代わって死んでくださり、神に背くものになっている「生まれた時からの私」という霊をイエスの十字架刑での処刑に合わせて、処刑されたもの、死んだものと手続きしてくださる贖いを受け取って、三日目に墓より、新しい霊のからだに復活し、弟子たちのみている前で天に帰られ、「父である神」の右の座に着かれたイエスが派遣してくださる「聖である霊」と呼ばれる方を受け入れるなら、この方の働きで、「父である神」が私たち一人一人に思っておられる御思いを心に置いていただけるので、受け入れる者は、「父である神」と思いを一つにし、心を一つにし、行動を一つにするようになるのだそうです。

 

 それで、受け入れる者は、「父である神」がしようと思われることを、自分もしようと思うようになり、「われわれに代わって」していく者にもしていただけるのだそうです。

 

 私たちが、心に来た御思いのとおりになるようにと、一歩踏み出す時、「聖である霊」と呼ばれる方の働きが、一人一人を通して現れるようになるのだそうですから。

今日も。

 

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