自分が自分を責めさいなむときも、あの方が私の保証人になって
わが主よ、
私は責めさいなまれています。
どうか私の保証人となってください。イザヤ書38:14
“霊”は弱い私たちを助けてくださいます。
私たちはどう祈るべきかを知りませんが、
“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって
執り成してくださるからです。ロマ書8:26
ヘブル書13:17~21
Ⅱペトロ3:1~9
(ローズンゲン日々の聖句11/18;金)
人からの中傷に、また、自分が自分を責め、自分自身によって責めさいなまれているときに、私たちの主である御子イエスが私の保証人になってくださり、弁護人になってくださるのだそうです。
この方が、私たちの身代わりになって、私たちのそむきの罪の責任を全部背負って処刑されてくださり、私自身である「生まれたときからの霊」を処刑されたもの、死んでしまった者と手続きしてくださって、ご自分のいのちで保証していてくださるのだそうですから。
だから、告訴する者がどんなに私の罪を並べ立てても、自分が自分を責めたてていても、イエスは、それらの一つひとつがすでに処罰済みで、罰すべきものは何一つ残っていないとご自身の命を懸けて弁護してくださるのだそうです。
さらに、私たちは、どう祈ったらいいのか分からない者、「父である神」とどういう関係をもったらいいのか分からない者ですが、イエスが派遣してくださる「聖である霊」と呼ばれる方が受け入れる者のうちにあって、「父である神」に執り成してくださり、私たちの本心を明らかにしてくださり、祈りの言葉も導いてくださるのだそうです。
そして、「聖である霊」と呼ばれる方は、私たちの「生まれたときからの霊」から来る思いを、死んだ者から来た思いであることを分からせてくださり、「父である神」が私たちひとり一人に思っていらっしゃる御思いを心に書き付けてくださって、御心のとおりに生きる者にしてくださり(ブル13:20~21)、御子イエスが「父である神」ともっておられる関係と同じ関係に入れてくださり、同じ栄光を与えてくださるのだそうです。
「神は、あらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになり、御子イエスのかたちと同じ姿にならせようとしていてくださるのだそうですから(ロマ8:29~30)。
「聖である霊」と呼ばれる方は、御子イエスが、「父である神」の御思いのとおりに生きられたように、私たちも、「父である神」がそれぞれの場で、私たちを通してしようと思っていらっしゃることをしていくよう、導いてくださるのだそうです
今日も。