風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

「主の御心であれば、私たちは生き永らえて、あのこともこのこともしよう」と言う

人間の心は自分の道を計画する。
  主が一歩一歩を備えてくださる。箴言169
 
 あなたがたは、
「主の御心であれば、
生き永らえて、あのことやこのことをしよう」
と言うべきです。ヤコブ書415
 
 ヘブル書131016
 イザヤ書5819a
      (ローズンゲン日々の聖句11/25;金)
 
 私たちは自分の道を思いめぐらし、いろいろ計画しているのですが、
その一歩一歩は、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方が備えてくださった出来事の中でできていること、なのだそうですね。
 
 私たちは自分が生きていくために必要なもの、環境を自分で準備したわけではないし、
自分自身の身体さえも自分で動かしているわけではないし、
その考える力自体、理性さえも、自分で保っていけているわけでもないですものね。
 
天の神、主が、支え、保っておられるその手をちょっとゆるめたら、私たち自身、どうなるかわからないし、この地球自体、この宇宙がどうなってしまうかわからないわけですから。
 
私たちは、天の神、主が、支え、保っておられる中で今日を存在しているもの、
主の許可の中で今日を生きているもの、なのだそうですから。
 
 
 だから、主イエスの弟のヤコブがその手紙で、
「聞きなさい。
『きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに1年いて、商売をして、もうけよう』と言う人たち。
あなたがたにはあすのことはわからないのです。
あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。
あなたがたは、しばらくの間現れて、それから消えていく霧にすぎません。
むしろ、あなたがたはこう言うべきです。
『主のみこころならば、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。』
ところがこのとおり、あなたがたはむなしい誇りをもって高ぶっています。
そのような高ぶりは、すべて悪いことです」(ヤコブ41316)と書いているように、
私たちは、天の支えと許可の中で存在しているものであることを認めるべきなのでしょうね。
 
 
 そればかりではなく、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、私たちひとり一人の人生にご計画を持っていてくださって、私たちひとり一人をとおしてやって行きたいこと、実現したいことがあるのだそうです。
この世界が保たれ、歴史が進んで行くために。
 
 それで、天の神、主は、私たちに、自分の自由意思で、自分からすすんで、ご自分と思いを一つにし、心を合わせてことを進めていく者になって欲しいと願っておられるのだそうです。
 
 イエスの十字架刑での処刑を、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になって、神である主に対抗する者になっている、自分の「生まれたときからの霊」の処刑と受け取って、処刑されたもの、処罰が終わっているものとされ、
イエスが派遣されるもう一人の助け主、「聖である霊」と呼ばれる方をお迎えして、
この方によって、ご自分の、一人ひとりに対する思いがそれぞれの心に置かれ、書きしるされ、
ご自分と一つ思い、一つ心になって、協働していく同労者になってくれるように、と。
 
 この地上に永遠の都を求めようとする心から、後に来ようとしている都を求める心に替えられ、
キリストを通して、賛美のいけにえ、御名をたたえるくちびるの果実を、絶えず神にささげ、
善を行うことと、持ち物を人に分け与えることに心を用い(ヘブル131316)、
悪のきずなを解き、くちびるのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、
すべてのくびきを砕き、飢えた者には自分のパンを与え、家のない貧しい人々を家に入れ、
裸の人を見て、これに着せ、自分の肉親の世話をし、
暁のように光がさしいで、傷がすみやかにいやされ、
義は私たちの前に進み、主の栄光が、私たちのしんがりとなり、
私たちが呼ぶと、主、「わたしはある」と言う方が答え、
私たちが叫ぶと、「わたしはここにいる」と仰せられる関係に(イザヤ5869a)。
今日も。
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