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風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

流れのほとりに植えられた木の

その人は流れのほとりに植えられた木。
ときが巡り来たれば実を結び、
  葉もしおれることがない。詩編13
 
 霊の結ぶ実は愛であり、
喜び、平和、寛容、親切、
善意、誠実、柔和、節制です。ガラテヤ書52223
 
 黙示録2110142127
 イザヤ書589b14
      (ローズンゲン日々の聖句1126;土)
 
 詩篇の作者はうたいます。
「幸いなことよ。
悪者のはかりごとに歩まず、
罪人の道に立たず、
あざける者の座に着かなかったその人。
まことに、その人は
主、「わたしはあるという者」と名乗られる方のおしえを喜びとし、
昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
その人は水路のそばに植わった木のようだ。
ときが来ると実がなり、その葉は枯れない。
その人は何をしても栄える」(詩篇113新改訳)と。
 
 私たち人間は、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方によって、
ご自分と心を一つにする者が欲しいと願われて、
愛と尊敬によって、自由意思で、自発的に、ご自分と一つになるものとして造らたものなのだそうです(創世記126)。
 
 けれども、最初の人アダムとエバは、天の神、主と一つになっているよりも、もっと上の者になりたいと思い、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になろうとしたのだそうです(創世記35、22)。
 
 それで、アダムとエバの子孫である私たちにも、その「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になろうとする性質が受け継がれているのだそうです。
 
私たちの「生まれたときからの霊」は、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方に対抗し、自分をその方よりも上の位置に置き、自分一人の理性の判断で善悪を決定し、天の神、主をも、他のすべての人をも自分の判断に従わせようとする性質を持っているのですね。
 
 それで、私たちがこの「生まれたときからの霊」から来る思いによって生きていくとき、私たちのはかりごとは「悪者のはかりごと。「罪人(的外れになった者)の道」、その居るところは「あざける者の座」、その行いは、「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、嫉み、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のもの」になってしまうのだそうです(ガラテヤ51921)。
 
 天の神、主は、そのような私たちの「生まれたときからの霊」を、イエスが十字架刑で処刑されてくださったその処刑に合わせてくださって、処刑済みのもの、死んだものと手続きしてくださるので、受け入れる者は、自分の「生まれたときからの霊」から出て来る思いを死んだ者から出て来た思いだと認めて、その思いは横に置いておいて、
イエスを通して来てくださるもう一人の助け主、「聖である霊」と呼ばれる方によって、「父である神」が私たちひとり一人に思っておられる御思いを心に置いいただき、書きしるしていただいて、「父である神」と同じ思いを思い、一つ心になって生きるようにしていただけるのだそうです(エレミヤ313134、エゼキエル362528)。
 
 それで、受け入れる者は、自分の「生まれたときからの霊(肉)」をさまざまな情欲や欲望とともに、十字架につけてしまっているもの」としていただけ、「聖である霊」とか「神の御霊」と呼ばれる方が心に置いてくださる御思いに導かれて生きる者にしていただけて、
「愛、喜び、平安、寛容、新設、善意、誠実、柔和、自制」の思いが心に来て、水路のほとりに植えられた木のように栄えを与えていただき、
やがて実現する新しい都エルサレムを受け継ぐ者にもしていただけるのだそうです(黙示録21927)。
 
 天の神、主、「わたしはあるという者」と言われる方を喜びとし、
「わたしはあなたに地の高い所を踏み行かせ、あなたの父ヤコブのゆずりの地であなたを養う」と言われた約束のとおりに(イザヤ5814)。
今日も。
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