風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

あの方の御思い、御言葉、諭しを心に置いていただいて

(さとし)をとらえて放してはならない。
それを守れ。それはあなたの命だ。箴言413
 
 私のこの命令は、
清い心と正しい良心と
純真な信仰とから生じる愛を目指すものです。Ⅰテモテ15
 
 Ⅰテサロニケ5:(1348
 イザヤ書601522
      (ローズンゲン日々の聖句12/1;木)
 
 イエスは、自らは全知、全能、永遠不変の方でありながら、「父である神」への愛と尊敬のゆえに、自分の思いによって生きるのではなく「父である神」の御思いが成ることだけを願って生きられた方なのだそうです(ヨハネ638828)。
 
 それで、ゲッセマネの園でも「父よ。みこころならば、この杯(十字架刑での処刑)をわたしから取りのけてください。
しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」(ルカ2242)と祈られ、
御父のみこころのとおりに、神に呪われた者、罪人として十字架刑を受け切って行かれたのだそうです。
 
 私たちも、「父である神」の、「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記126)との願いによって、「父である神」、「御子である神」、「聖である霊」と呼ばれる神が、愛と尊敬において、自由意思で、自発的に一つになっておられる、思いを一つにし、心を一つにし、行動を一つにし、存在を一つにしておられる、
その一つに、愛と尊敬をもって、自由意思で、自発的に加わる者として造られ、
イエスは、その「一つ」を回復するために私たちに代わって十字架刑での処刑を受けられたのだそうです(ヨハネ17112123)。
 
 それで、天の神、主の約束の言葉を受け取って、
自分自身は、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になろうとして、
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方に対抗し、反逆している者であることを知り、認めて、
「生まれたときからの霊」と言う自分自身をイエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて、自分自身である「生まれたときからの霊」を処刑されたもの、死んだものとしていただいた者は、復活し、天の「父である神」の右の座に帰られたイエスが派遣してくださるもう一人の助け主、「聖である霊」と呼ばれる方をお迎えするなら、
この方が、イエスがそうであったように、「父である神」のひとり一人に思っておられる御思いを心に置いてくださるので(エレミヤ313134、エゼキエル362528、イザヤ5921)、
受け入れる者は、「父である神」の御思い、その言葉、諭しを心に持つ者になり、
清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指して生きる者にしていただけるのだそうです。
御思い、その言葉、諭しを握り、心を向けながら。
今日も。
 
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