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風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

主の慈しみと恵みの中に

主の慈しみは決して絶えない。哀歌3:22

 

 私たちの主の恵みが、

キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、

あふれるほど与えられました。Ⅰテモテ1:14

 

 黙示録2:1~7

 イザヤ書63:1~6

       (ローズンゲン日々の聖句12/7;水)

 

 私たちが滅び失せないで、今日、ここに存在できているのは、私たち、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方の恵みと、絶えることのない、尽きない慈しみ、あわれみによるのだそうです。

 

 もし、天の神、主、「わたしはあるという者」と言われる方が、私たちの「義」に、あるいは「信仰」に目を向け、調べられ、その責任を問われたら、私たちは誰一人、合格する者はなく、不適格な者として処分されるはずの者なのだそうですから。

 

 私たちは、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方によって、

愛し合い、尊敬し合い、ご自身と思いを一つにし、心を一つにし、行動を一つにする者を、と願われ、

造られたものなのだそうです(創世記1:26)

 

 しかし、最初の人アダムとエバは、その天の神、主との一つの場に留まることを良しとしないで、

天の神、主、「わたしはあるという者」と言われる方に対抗し、反逆して、

「神のひとりのようになり、善悪を知る者になろう」としたのだそうです(創世記3:5、22)。

 

 そして、そのアダムとエバの子孫である私たち人間は、この性質を受け継いで、天の神、主の創造の目的から外れた者、ズレてしまった者、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」として生まれてきているのだそうです。

 

 だから、善い人間になろう、良い世界にしよう、信仰深い者になろうと願いながら、

でもそれは、天の神、主と思いを一つにしようという方向ではなく、

天の神、主に対抗、対立した出来事、

「神のようになろう。神の上に自分の位をあげる者になろう」としていること(イザヤ14:13~14)、になるのだそうです。

 

 「義人はいない。一人もいない。すべての人が迷い出て、みなともに無益な者となった」(ロマ3:10~12)と聖書が断じ、

「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか」(ロマ7:24)と使徒パウロが記している所以なのでしょうね。

 

 けれども、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方はいつくしみ深い方なのだそうです。

あふれるほどの恵み、尽きない慈しみをもって私たちに向かってくださり、

天地創造の初めからの計画のとおりに、

御子である方が、予告されていたとおりに、

ダビデ王の子孫の一人の処女の胎を通して、人として人の世に来られ、

私たちすべての人間のそむき、外れのすべての責任を負って十字架刑での処刑を受けてくださり、

この神に対抗し、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている私たちの「生まれた時からの霊」を処刑されたもの、死んだものとしてくださるのだそうです。

 

 そのうえで、受け入れる者に、もう一人の助け主、「聖である霊」と呼ばれる方を派遣してくださって、

この方の働きで、受け入れる者の心に、

「父である神」が私たちひとり一人に思っていてくださる御思いを置いてくださり、書きしるしてくださって、

受け入れる者がご自身と同じ思いを思い、一つ心になり、一つ行動をとり、

存在を一つにする者にしてくださるのだそうです。

 

 そして、この「聖である霊」と呼ばれる方による「一つ」をいただいている者は、

イエスがおられる所にいつもいるようにしてくださるのだそうです。

 

 だから、この天の神、主の愛、慈しみ、恵みを通り過ぎないで、留まり続けているようにと主は願ってくださっているのだそうです(黙示録2:4)。

今日も。

 

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