口を開いて弁護し、思いやる者にもしていただけるのだそうです。
あなたの口を開いて弁護せよ、
ものを言えない人を、
自分も一緒に捕らわれているつもりで、
牢に捕らわれている人たちを思いやり、
自分も体を持って生きているのですから、
虐待されている人たちのことを思いやりなさい。ヘブル書13:3
ホセア書14:2~10
イザヤ書65:1~10
(ローズンゲン日々の聖句12/12;月)
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、
口のきけない人、犠牲になり悩んでいる貧しい人の弁護者となり、その権利を守られる方。
牢に捕らわれている人、虐待され苦しめられている人を思いやっていてくださる方のようですね。
イエスは言われました。
「さあ、わたしの父に祝福された人たち。
世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。
あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、
わたしが渇いていたとき、私に飲ませ、
わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、
わたしが裸のとき、わたしに着るものを与え、
わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、
わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。
あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、し
かも最も小さい者たちのひとりにしたのは、
わたしにしたのです」(マタイ25:31~40新改訳)と。
自分自身が、造られた場、
「われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)と
神がおっしゃる場からはずれて、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になって(創世記3:5、22)、
自分の理性を神とし、
天の神、主に対立、対抗し、反逆している者(イザヤ65:2~5)であることを認め、
その自分の理性を神としている自分自身である「生まれたときからの霊」を
イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて
処刑されたもの、死んだものとしていただき、
このイエスが派遣してくださる「聖である霊」と呼ばれる方をお迎えし、
この方によって、
心に「父である神」が私たちひとり一人に思ってくださっている御思いを置いていただき、
その御思いによって生きるようにしていただいた者(ガラテヤ5:24~25)は、
イエスがそうであるように、
不利な立場にある人、弱い人、苦しんでいる人を思いやっておられる
「父である神」の御思いを心に持つ者にしていただけるのだそうですね。
そして、「父である神」が私を通してしようと思っておられることをさせていただけるのだそうですね。
天の御国で、ご自分と心を一つにしている者としての誉れを受けることにも。
今日も。