風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

これは、わたしの愛する子。これに聞け

主はエレミヤに言われた。

「見よ、

わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける。」エレミヤJeremiah1:9

 雲の中から声がした。

「これはわたしの愛する子。これに聞け。」マルコMark9:7

 マタイMatthew2:13~18

 ルカLuke2:25~35

      (ローズンゲン日々の聖句12/28;水)

 次のような、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方の言葉がエレミヤにあったのだそうです。

「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、

あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、

あなたを国々への預言者と定めていた。」

 そこでエレミヤは言ったのだそうです。

「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。」

 すると、主、「わたしはある」という者と言われる方はエレミヤに仰せられたのだそうです。

「まだ若い、と言うな。

わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。

彼らの顔を恐れるな。

わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。」と。

 そのとき、主は御手を伸ばして、エレミヤの口に触れ、エレミヤに仰せられたのだそうです。

「今、わたしの言葉をあなたの口に授けた。

見よ。わたしは、きょう、あなたを諸国の民と王国の上に任命し、

あるいは引き抜き、あるいは引き倒し、あるいは滅ぼし、

あるいはこわし、あるいは建て、また植えさせる」(エレミヤ1:4~10)と。

 イエスが、ペテロとヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に導いていかれた時、

彼らの目の前でイエスの姿が変わり、その衣は非常に白く光り、

イエスよりも700年ほど前の預言者エリヤと、

1500年ほど前、イスラエルの民に律法を取り次いだモーセが現れ、イエスと、

イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期についていっしょに話していたのだそうです。

 怖くなったペテロが口を挟むと、雲がわき起こってその人々をおおい、

雲の中から声があったのだそうです。

「これはわたしの愛する子。これに聞け」と。

ペテロたちが見回すと、そこにおられるのはイエスだけだったのだそうです(マルコ9:2~8、ルカ9:28~36)。

 神は、むかし、預言者たちを通して、多くの部分に分け、

また、いろいろな方法で語って来られたのだそうですが、

この終わりの時には、御子によって語っておられるのだそうです(ヘブルHebrews1:1~2)

 そして、十字架刑での処刑を受けられ、墓に葬られたイエスは、

三日目、日曜日の朝、新しい「霊のからだ」に復活し、

40日にわたって何度も弟子たちに現れ、ご自身が生きていることを証明されたのち、

オリーブ山から、弟子たちの見ている前で、天の「父である神」の右の座に帰られたのだそうです。

 そして、そこから、受け入れる者にもう一人の方、「聖である霊」と呼ばれる方を派遣して下さって(ヨハネJohn14:16)、

この「聖である霊」と呼ばれる方によって、受け入れる者の心に、「父である神」の御思いを置いてくださり、書きしるしてくださるのだそうです(エレミヤJeremiah31:31~34、エゼキエルEzekiel36:25~28)。

John

 「父である神」は、御子イエスに、

そして、イエスが派遣される「聖である霊」と呼ばれる方に聞いて欲しいと

おっしゃっておられるのですね。

今日も。

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