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風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

イエスという土台の上に

家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった。
これは主の御業、私たちの目には驚くべきこと。詩編1182223 
 
 イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、
だれもほかの土台を据えることはできません。Ⅰコリント311
 
 Ⅰヨハネ316
 ルカ41421
      (ローズンゲン日々の聖句2017/1/7:土)
 
 石造りの家を建てる者が、こんな石は使えない、役に立たないと退け、捨てた石。
そのように、自分の民から「除け。除け。」「十字架につけろ」と要求され、ローマ総督ピラトさえもイエスに罪を認められず釈放しようとするのを、「もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザルローマ皇帝の味方ではありません。自分を王だとする者はすべて、カイザルにそむくのです」(ヨハネ1912)とまで迫られて十字架刑で処刑されたイエス。
 
 しかし、父である神は、墓に葬られたこのイエスを、三日目、日曜日の早朝、全能の御力をもって、新しい霊のからだに復活させて、公に神の御子として指し示されたのだそうです(ロマ14)。
 
 そして、このイエスを「隅の親石」とし、土台とされ、このイエスという土台の上にわたしたちの救いを、あるいは教会を建て上げられるのだそうです。
また、神の神殿、神の御霊が宿る神殿としての私たちひとりひとりの生活、人生を。
 
 このイエスは、「神のことば」と呼ばれる方。
「父である神」の御思い現れである方。
イエスご自身も、「わたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、父がわたしに言われたとおりをそのまま話し、行っている」(ヨハネ828124950)のだとおっしゃっておられる方。
 
 この方を土台とした私たちの生活。
それは、私たちも、自分から、「生まれたときからの霊」から心に来る思いによって生きるのではなく、
「聖である霊」と呼ばれる方から心に来る「父である神」の御思いによって生きるということのようです。
 
 そして、その生き方は、その日に、火で試されるとき、燃えてしまわないで残る建物として(Ⅰコリント311)
「神の子」の生き方として(Ⅰヨハネ316
新しい御国で栄光を受ける生き方なのですね。
 
 イエスという土台、
「聖である霊」と呼ばれる方によって心に来る「父である神」の御思いの上に生活、人生を建てていくのだそうです。
今日も。