風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

救いをもたらす神の恵みが現れ

主は憐れみ深く、恵みに富み、
  忍耐強く、慈しみは大きい。詩編1038
 
 実に
すべての人々に救いをもたらす
神の恵みが現れました。テトス書211
 
 エフェソ書1310
 ルカ5:1~11
     (ローズンゲン日々の聖句1/12:木)
 
 
 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は
いつまでも怒ったおられる方ではなく、
私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、
私たちの咎に従って私たちに報いることもない方。
 
 天が地上よりもはるかに高いように、
御恵みは、主を恐れる者の上に大きいのだそうです。
東が西から遠く離れているように、
私たちのそむきの罪を私たちから遠く離され、
父がその子をあわれむように、
主は、ご自分を恐れる者をあわれんでくださるのだそうです。
 
 主は、私たちの成り立ちを知り、
私たちがちりにすぎないことを心に留めておられるのだそうですから(詩篇103914)。
 
 
 この方は、ご自分と思いを一つにし、心を一つにし、行動を一つにし、存在を一つにするようにとの願いで私たち人間を造られたのだそうです(創世記Ⅰ:26)。
 
 けれども、最初の人アダムトエバは、その天の神、主との一つになっている場に留まることをせず、もっと素晴らしい者に、神のひとりのようになり、善悪を知る者になろう。天の神、主と同じものになろうと思い立ち、造り主である天の神、主に対抗し、敵対する者になったのだそうです(創世記3章)。
 そして、アダムの子孫である私たち人間は、このアダムの「神のひとりのようになり、善悪を知る者になろう」とする、天の神、主に反逆する性質を受け継いで生まれて来ているのですね。
 
 けれども、天の神、主は、なお、私たち人間を、ご自身と一つになる場に取り戻そうとされたのだそうです。
 
それで、天地創造の初めからのご計画のとおりに、御子である方が人間イエスとして人の世に下り、この、すべての人間のすべてのそむき、反逆の責任をご自身に背負って、身代わりとなって、神にそむいた者、神に呪われたものとなって十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうです。
 
 それで、このイエスの処刑を自分の処刑と受け取るなら、自分自身である〔生まれたときからの霊〕をイエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて、処刑されたもの、死んだものとしていただけるのだそうです。
 
 そして、これを受け取った者にもうひとりの方、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
この〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、
ご自身が一人一人に思っておられる御思いを受け入れる者の心に置き、書きしるして、受け入れる者がご自身と同じ思いを思い、一つ心を持つようにしてくださって、新しく生きるようにしてくださるのだそうです。
 
 
 この出来事は、旧約聖書で繰り返し預言されて来て、ついに、今から2000年ほど前、あのユダヤの地、エルサレムで成し遂げられた歴史的事実なのですね。
 
 
 
 【エペソ217】私たちは自分の罪過と罪との中で死んでいた者で、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊、〔サタンとその手下の悪霊〕と呼ばれる者たちに従って歩んでいました。
自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、生まれながら御怒りを受けるべき者でした。
 
 しかし、憐れみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちを、ご自身の側の一方的な恵みによって、キリストとともに生かし、キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天のところにすわらせてくださっているのだそうです。
 
 それで、私たちも、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福された望み、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現れを待ち望むようにとの、〔父である神〕の御思いを、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって心に置いていただいて、同じ思いにしていただけるのだそうです。今日も。
 
イメージ 1