風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

私を憐れんでください

主はあなたの叫ぶ声に答えて、
   必ず恵みを与えられる。
 主がそれを聞いて、ただちに答えてくださる。イザヤ書3019
 
 ダビデの子イエスよ、
私を憐れんでください。マルコ647
 
 コロサイ書2:1~7
 ルカ51226
      (ローズンゲン日々の聖句1/13:金)
 
 この世の信仰と呼ばれているもののほとんどは「照る照る坊主」信仰のようですね。
「照る照る坊主」。
あした、天気にしてくれたら銀の杯をあげるよ。
けれども、雨だったら、お前の首をチョンと切るぞ、というような。
 
 自分には答えてもらえる資格も価値もないと知っている者が、
それえでもなお、叫び求めることができるのは、
相手のあわれみによりすがるからなのですね。
 
 エリコ街道で物乞いをしていた盲人のバルテマイ。
イエスが通られると聞いて、
ダビデの子イエスよ。私をあわれんでください」と大声で叫び始めた。
周りの人がしかりつけ、黙らせようとしても黙らずに、
ますます、声を大きくして。
 
 彼は、自分にはイエスに答えていただく資格など何一つないとよく分かっていたのでしょうね。だから、「憐れんでください」と叫び立てた。
 
 すると、イエスは、立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われ、「わたしに何をしてほしいのか」と尋ねられたのだそうです。
 
 そのバルテマイが、「先生。見えるようになることです」と答えると、
イエスは「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われ、
見えるようになったバルテマイは、イエスの行かれる所について行ったのだそうです(マルコ104652新改訳)。
 
 バルテマイの、イエスの憐れみにすがる心が、まわりから止められても叫び続けさせたのでしょうね。
 
 このイエス・キリストは、神の奥義であって、このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのだそうです(コロサイ23)。
だから、イエスがいて下されば、全部あることになるのだそうです。
 
 神の憐れみを足掛かりにして、イエス・キリストを求めていきたいですね。
今日も。
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