風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

わたしが喜んでいるように、あなたがたも喜ぶようになり

わたしはわたしの民を楽しみとする。
泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。イザヤ書6519
 
 希望をもって喜びなさい。ロマ書1212
 
 Ⅰコリント2610
 ルカ92836(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句2 /10:金)
 
 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方御自身が、その民を喜び、楽しみとしていてくださるというのですね。
 
 本来、私たち、人間は、「わたしはあるという者」と名乗られる方から、ご自身と思いを一つにし、心を一つにして、互いに、相手を喜び、楽しむ者、花婿が花嫁を喜ぶように喜び合う者を、と望まれて造られたものなのだそうです(創世記1:26)。
 
 けれども、最初の人アダムは、その造られた「わたしはあるという者」と名乗られる方との一つの場に留まることをしないで、もっと素晴らしい者になろうとし、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になり(創世記3522)、この方に対抗、対立する者になったのだそうです。
そして、アダムの子孫である私たちも、この〔そむき、反逆〕の性質を受け継いで生まれて来ているのだそうです。
 
 だから、そのような、最初の創造の目的から〔的はずれ〕になっているものは、天の神、主にとっては、もはや、喜び、楽しみの存在ではなくなっているはずなのです。
けれども、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、あきらめないで、私たち、人間が、最初の目的のように回復されるよう、ご計画を進められたのだそうです。
 
 この人間の歴史の中で、ひとりの人、アブラハムを選び、このひとりの人から一つの民族を造り、この民族と〔神の民〕となる契約を結ばれたのだそうです。
 そして、その民の中から、ひとりの羊飼いの少年、ダビデを選んでこれを王とし、その子孫の中から、アダムの〔そむき〕の性質を受け継がない〔女の子孫〕として(創世記315)、〔御子である神〕を人間イエスとして人の世に派遣されたのだそうです。
 
 そして、この方、イエスが33歳の頃、ユダヤ人の指導者たちの妬みとローマ兵を用いて、この方を十字架刑で処刑されたのだそうです。
〔父である神〕は、このイエスの処刑を、すべての人間の、すべてのそむきの罪の処刑とみなしてくださり、すべての人の処罰が終わったものとしてくださったのだそうです。
アダムの〔そむき〕の罪を受け継いでいる、私たちの〔生まれたときからの私〕という霊を、イエスの十字架刑での処刑に合わせて、処刑されたものとして、死亡手続きをしてくださっているのだそうです。
 
 そして、受け入れる者に、もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方、〔父である神〕の御思いの深みにまで及んでおられる方(Ⅰコリント210)を派遣してくださるのだそうです。
 この方は、受け入れる者の心に、〔父である神〕が、ひとり一人に思っておられる御思いを置き、書きしるしてくださるので、受け入れる者は、この部分において〔父である神〕と同じ思いを思い、一つ心になり(エレミヤ3133、エゼキエル362531)、〔父である神〕がしようと思われることをしていく者にしていただけるのだそうです(ヨハネ1412)。
そして、主イエスを喜びとし(ルカ935)、花婿が花嫁を喜ぶように、心を一つにする者の喜びを喜び合わせてくださるのだそうです(イザヤ625)。
今日も。

 

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