風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

うなだれ、うめく、その悲しみは喜びに変わり

なぜうなだれるのか、

私の魂よ、なぜ呻くのか。

神を待ち望め。

私はなお、告白しよう、

「神こそ、私の救い」と。

私の神よ。詩編42:12

 

 あなたがたは悲しむが、

その悲しみは喜びに代わる。ヨハネ16:20

 

 申命記8:11~18

 レビ記9:1~24(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句3/8;水)

 

 「お前の神はどこにいるのか」とか、

「神は見ていない。私たちが善をしても悪をしても、神は何にもしない」とか、

「神は死んだ」とか、人は心に思い、言うのですね。

 

 また、食べて満ち足り、立派な家に住み、富が増し加わると、心高ぶり、

「この私の力、わたしの手の力が、この富を築き上げたのだ」と心に思うのですね(申命記8:11~18)。

 

 それで、神を求める心は、内にうなだれ、思い乱れることになります。

しかし、詩編の作者は言うのですね。

「神を待ち望め」と。

 

 

 天の神、主は、イスラエルの民に、民がご自分と和解し、神の前に出るために、

「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になって、神にそむき、神に対立、対抗している自分の身代わりとして、子牛や小羊を全焼のいけにえとしてささげ、その血を神の前に注ぐよう命じ、身代わりのものの処刑により、背きの罪が赦され、神と民との和解の道が開けることを予告して来られました(レビ9:1~24)。

 

 そして、1500年の時を経て、その予告のとおりに、イエスは、私たち、すべての人間の身代わりとなり、すべてのそむきの責任を負って、神にそむく者、神に呪われた者として、十字架刑での処刑を受けようとしておられる、その前夜の夕食の席で弟子たちに言われました。

「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」と。

「あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度、あなたがたに会います。

そうすればあなたがたの心は喜びに満たされます」(ヨハネ16:20~22)と。

 

 イエスが、十字架に架かられたのは、金曜日の朝の9時頃。そして、(手続きは)「完了した」と言われて息を父である神にお渡しになったのは午後の3時だったそうです(ルカ23:44)。

 

日没からは、過ぎ越しの祭りの安息日が始まるので、イエスは、隠れ弟子であったアリマタヤのヨセフが自分のために掘っておいた墓が近くにあったので、急いで、そこに葬られたのだそうです。

 

けれども、イエスは、三日目、日曜日の早朝、死から、新しい霊のからだで復活し、40日に渡って何度も弟子たちに現れ、絶望と悲しみの中にあった弟子たちは喜びに満たされたのだそうです。

 

イエスは、弟子たちのみている前で、オリーブ山から、天の父である神の右の座、御子である神の位に帰られたのだそうです。

それから10日後の五旬節(ペンテコステ)の祭りの日に、イエスが言われた、「父である神の約束」の、〔聖である霊〕と呼ばれる方が弟子たちに来てくださり、弟子たちの心に〔父である神〕の御思いを置いてくださったので(エレミヤ31:33~34、エゼキエル36:25~28)、弟子たちは、この〔聖である霊〕と呼ばれる方による、御父の御思いのままに話し出し(使徒2:1~4)、みんなの前で、50日前に、十字架刑で公開処刑されたあのイエスが、復活し、今、約束の〔聖である霊〕と呼ばれる方が来られていることを大胆に証言するようになったのだそうです。

そして、その、イエスの復活の証言は、エルサレムから始まって、ユダヤとサマリヤの全土、

そして、地の果て、東の果ての日本にまで伝えられているのですね。

 

 今、悲しんでいる者も、この方をお迎えするとき、

その悲しみは喜びに変わるのだそうです。

今日も。

 

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