風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

よく眺め、問うてほしいのだそうです。どれが幸せに到達できる道か、を。

キリストが私たちのために死んでくださったことにより、
神は私たちに対する愛を示されました。ロマ書583/12の週の聖句)
 
さまざまな道に立って、眺めよ。
昔からの道に問いかけてみよ、
どれが、幸いに至る道か、と。
その道を歩み、魂に安らぎを得よ。エレミヤ書616
 
 あなたがたが信仰と忍耐とによって、
約束されたものを受け継ぐ人たちを
見倣う者となって欲しいのです。ヘブル書612 
 
 マルコ12:1~12
 詩編10編(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句3/12:Ⅱ日) 
 
 キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださったのだそうです。
この世に、正しい人のために死ぬ人はほとんどありません。
情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるかもしれません。
しかし、イエスは、私たちがまだ罪人であったとき、そむき、対抗し、敵対しているとき、
その、私たちのそむきの責任を、私たちに代わってご自身に負ってくださって、私たちが受けるはずの処刑を受けて、
私たちが神に帰る道を開いてくださっいるのだそうです。
 
 人の世には、善き人になり、幸せになるためのさまざまな道があります。天の神、主は、私たちに、その道の行き着く先をよく眺め、よく問うて、どの道が本当の幸せに到達できる道のか、よく見極めなさい、と言っておられるようです。
 
 私たちの前には、このイエスによる救いを受け取って約束のものを相続している多くの人たちが証人としているのですから、その人たちに見倣い、希望と確信からはずれないように、と言われるのですね。
 
 このイエスを、多くの人たちは、石造りの家を建てる者たちが役に立たない石として見捨てた石のように、見捨て、十字架に架けて殺したのですが、この方こそが、神から来る救いの「礎の石」なのだそうですから(マルコ12112)。
 
 「神はいない」と言う、おのれの心の欲望を誇り、天の神、主をのろい、侮る人たち。
「神は忘れている。顔を隠している。彼は決して見はしないのだ」と心の中で言い、「私はゆるぐことがなく、代々にわたって、わざわいに会わない」と言う、今、栄えている人たちがいます。
 
それらの人の道に心惹かれることなく、神の愛による、本当の幸いに至る道、天の神、主に帰る道を進んで欲しいのだそうです。
この新しい週も。
 
 
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