風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

あなどられ、捨てられて当然な者を、重んじ、用いて

主は言われる。
わたしを重んずる者をわたしは重んじ、
わたしをあなどる者をわたしは軽んずる。サムエル記上230
 
 イエスの言葉:
あなたがたは、わたしを「先生」とか「主」とか呼ぶ。
そのように言うのは正しい。
わたしはそうである。ヨハネ1313 
 
 創世記37341214233536
 レビ記193137(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句3/13:月)
 
 私たち、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている〔生まれたときからの霊〕は、天の神、主にそむき、敵対、対立、対抗して、天の神、主の善悪の判断よりも自分の理性の善悪の判断をより優れたもの、正しいものとし、天の神、主よりも自分の判断を先立て、天の神、主をあなどり、無視する者なのですね。
それで、天の神、主が、そのような私たちを軽んじられたとしても、それは当然のこと、何の文句もつけようがないこと、と言えるのかもしれません。
 
 イエスは、弟子たちがご自身のことを「先生」とか「主」と呼ぶことを、正しいことだと仰られました。
そして、その、「先生」であり、「主」である方が、夕食の席で、立ちあがって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれ、弟子たちの足を洗い、手ぬぐいでふかれました。
弟子たちのことを、まるで、御主人様か大事なお客様のように対してくださったのだそうです(ヨハネ13117)。
 
 また、天の神、主は、ヨセフが父親から特別に愛されていることで10人の兄たちから憎まれ、奴隷として売り飛ばされてしまった、そのヨセフを、エジプトの王に次ぐ権力者、宰相とされ、飢餓のとき、身内の者たちをエジプトに呼び寄せて救うこととされたのだそうです(創世記50:15~21)。
 
 さらには、そのとき、エジプトに行った家族は70人だったそうですが、それを、エジプトの豊かさの中で、徒歩の壮年の男子だけで約60万人(出エジプト記1237)の民族に成長させ、
この民族に律法を与え、神の民とする契約を結び、
〔御子である神〕が、「女の子孫」として、ダビデの系列から、救い主、キリストとして人の世に来られる、
その道筋を整えていかれたのだそうです。
 
 天の神、主は、私たちが、自分の理性の判断を先立てて、霊媒や口寄せに心を移すことなく、御自身を重んじて、御自身と心を一つにし、老人を敬い、在留異国人を大切にし、さばきにおいても、はかりにおいても、分量においても、商売、事業運営においても、正しく行ってほしいと願って(レビ193137)、ねたむほどに愛しておられる〔聖である霊〕と呼ばれる方(ヤコブ45)を、私たちに派遣しておられるのだそうです。
今日も。
 
 
 
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