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風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊が来てくださって

彼は弱い人のために正当な裁きを行い、
この地の貧しい人を公平に弁護する。イザヤ書114
 
 イエスの言葉:
貧しい人々は、幸いである。
神の国はあなたがたのものである。ルカ620
 
 マタイ1034
 ルカ202026(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句3/24;金)
 
 エッサイダビデ王の父親の根株から生え出た新芽、
その根から出た若枝として来られた方、イエス。
 
 その方の上に主、「わたしはあるという者」と名乗られる方の霊がとどまるというのですね。
その方は、知恵と悟りの霊、
はかりごとと能力の霊、
主を知る知識と主をおそれる霊である。
この方は主をおそれることを喜び、
その目の見るところによってさばかず、
その耳の聞くところによって判決を下さず、
正義をもって寄る辺のない者をさばき、
公正をもって国の貧しい者のために判決を下すのだそうです(イザヤ1114新改訳)。
 
 そして、700年ほど後のこと、バプテスマのヨハネは、
「御霊が鳩のように天から下って、イエスの上にとどまられる」のを見て、イエスを神の子、
「世の罪を取り除くために、神にささげられる犠牲の小羊」、
聖霊によってバプテスマを授ける方」と世に紹介したのだそうです(ヨハネ12934)。
 
 イエスご自身が言われます。
「貧しい人々は、幸いである。」
なぜなら、「神の国はあなたがたのものだから」と。
 
霊が、心が貧しく、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている自分自身からは、神が言われるように生きようと願っても、それを実行する力がなく、
したくないはずの神に背くこと、神に対抗する生き方をしてしまう者である(ロマ71424)ことが分かって、
神の前に差し出せる善いものが何もないことを認めて、
物乞いのように、
神の憐れみによる恵みのプレゼントをもらっていく、
受け取っていく者は幸いだ、というのですね。
 
 その人は、自分自身をイエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて、〔生まれたときからの私〕という霊を処刑済みのもの、死んだものと見なしていただき、
新しい霊として、〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして、
新しく生まれた者として生きる(ヨハネ3:1~13)者にしていただけるのだそうですから。
 
 受け入れる者のうちに来られた〔聖である霊〕と呼ばれる方が、私たち一人一人に対する〔父である神〕の御思いを、受け入れる者の心に置いてくださるので、
受け入れる者は、自分のうちの〔生まれたときからの私〕という霊から来る思いは、死んだ者から来た思いだ、として、これは、神様のみ前に投げ捨て、
〔聖である霊〕から来る〔父である神〕の御思いについて行く、
新しい生き方ができるようになるのだそうですから。
 
 それで、神の国、天の神、主の統治が、その人に及ぶようになるというのですね。
 
 イエスが処刑される前は、「自分が処刑されるその十字架を負って」、処刑場へとイエスのあとについて行く(マタイ1038)。
 
 そして、イエスの十字架刑での処刑が完了している今は、自分自身である〔生まれたときからの私〕という霊は十字架刑で処刑されたもの、死んだもの、として、新しい霊によって生きるのだそうです。
 
 そのように、心の、霊の貧しい者、自分自身では神の前に差し出す善いことは実行できない者であることを認め、
神からの、イエスの十字架刑での死によるプレゼントを受ける者は、
神の統治の中で、神がしようと計画しておられることの、私の部分を実行していく者となるのだそうです。
 
 そして、イエスの反対者がイエスを捕える口実を見つけようとして、
「私たち(神の民であるユダヤ人)が、カイザルローマ皇帝に税金を納めることは、律法に適っているでしょうか」とイエスに質問させたとき、
イエスは、質問者に、デナリ銀貨(ローマの貨幣)を出させて、
デナリ銀貨に刻まれているローマ皇帝テべリオの肖像を示し、
「カイザルローマ皇帝のものはカイザルローマ皇帝に、
神のものは神に返しなさい」と答えたので、
反対者たちは驚嘆して黙ってしまった(ルカ202026)のだそうです。
 
〔聖である霊〕による〔父である神〕の御思いによって生きる者も、
このイエスのように、神の知恵をいただけるのだそうです。
前もっていっぱいではなく、
必要な、そのとき、そのときに、必要な分を(マタイ101920)。
今日も。
 
 
 
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