風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

イエスがしようと思うことを何でもしていく者に

しようと思うことは何でもしなさい。

神があなたと共におられるのです。サムエル記上10:7

 

 何を話すにせよ、行うにせよ、

すべて主イエスの名によって行い、

イエスによって、父である神に感謝しなさい。コロサイ書3:17

 

 ヨブ記9:14~23

  32~35 ルカ21:1~4(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句3/28;火)

 

 イスラエルに王がなかったころ、

天の神、主は、民の中から士師を立ててさばきつかさとし、

士師は神に聞きながら民の問題を解決していました。

 

 けれども、民は周りの国々のように王がいればと、

王制の弊害を説く預言者サムエルに、

「いや、どうしても、私たちの上に王がいなくてはなりません。

私たちも、ほかのすべての国民のようになり、

私たちの王が私たちをさばき、

王が私たちに先立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれるでしょう」と王を立てるよう迫ったのだそうです。

 

 天の神、主は、サムエルに、

「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。

それはあなた(サムエル)を退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから」と言われ、サムエルを通して、イスラエル第1代目の王、サウルが立てられることになりました。

 

 あなたはイスラエルの王となるというサムエルの言葉が信じられなくて、

「どうしてあなたはこのようなことを言われるのですか。

私はイスラエルの部族のうちの最も小さいベニヤミン人ではありませんか。

私の家族は、ベニヤミンの部族のどの家族よりも、つまらないものではありませんか」と答えるサウルにサムエルは言います。

「あなたが、ペリシテ人の守備隊のいる町、神のキブアに入るとき、高きところから降りてくる預言者の一団に出会います。

彼らは預言をしていますが、主の霊があなたの上に激しく下ると、あなたも彼らといっしょに預言して、あなたは新しい人に変えられます。

このしるしがあなたに起こったら、手あたりしだいに何でもしなさい。

神があなたとともにおられるからです。」(サムエル8:1~10:7)と。

 

 「しようと思うことは、手あたりしだい何でもしなさい」とは、〔ともにおられる神〕、〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置かれる〔思うこと〕は、ということのようですね。

 

 事実、サウロは、サムエルから「私が着くまで7日間、そこ(ギルガル)で待たなければなりません」と言われていたのですが(Ⅰサムエル10:8)、ペリシテ人が攻めて来て、サウロは、ギルガルで、7日間、待ったのですが、サムエルは来ず、民は逃げて行こうとするので、サウロはサムエルを待ちきれず、ついに、自分で全焼のいけにえと和解のいけにえを神にささげたのだそうです。

 

神のことばに従わず、自分の理性の判断に従って行動した、このことが、サウロが王位から退けられることにつながったのだそうですから(Ⅰサムエル13:5~15)。

 

 私たちも、〔聖霊を受ける〕と、今までの律法の束縛から解放され、〔生まれた時からの私〕という私自身も生き生きとし、元気になり、今までの、人に気を配りながら、おずおずとではなくなるので、主の思われるとおりにではなく、自分の思いのとおりにして、人をけとばしていくことにもなりやすいようです。

 

 しっかりと、〔生まれた時からの私〕は、イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて死んだものとなっており、〔生まれた時からの私〕から来る思いは、死んだものから出て来ている思いであることを認めて、神の前に差し出し、お渡しし、〔聖である霊〕と呼ばれる方から心に来る〔父である神〕が私を通してしようと思っておられる、その御思いについて行く生き方を理解しておかないといけないようです(ガラテヤ5:24~25)。

もし、王であれば、御思いのとおりに、手あたりしだい何でもしていいのでしょうが。

 

 義人ヨブは、原因が自分には思いあたらない激しい苦しみの中にあって、神と自分との間を〔仲裁する者〕を望んだのだそうですが(ヨブ9:33)、

その仲裁者として、〔御子である神〕が人間イエスとなって人の世に来てくださり、

和解のいけにえとして、ご自身の身を十字架刑での処刑に差し出してくださって、

天の神、主と私たちすべての人間の仲裁をしてくださいました。

 

 そして、〔聖である霊〕と呼ばれる方が来てくださって、受け入れる者の心に、〔父である神〕が一人一人に思ってくださっている御思いを置いてくださるのだそうです(エゼキエル36:25~28)。

 

 あの、レプタ銅貨二つをささげたやもめも(ルカ21:1~4)、その、〔聖である霊〕によって心に置かれた御思いによって生きる人だったのでしょうか。

 

 私たちも、イエスの御名によって、イエスの代理人として、それぞれの、心に置いていただく、イエスがしようと思われる御思いを、そのとおりにしていく生き方をさせていただけるのだそうです。

今日も。

 

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