風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

若いうち、元気なうちに

青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。

苦しみの日々が来ないうちに。

「年を重ねることに喜びはない」

という年齢にならないうちに。コヘレトの言葉(伝道者の書)12:1

 

 「イエスよ、

あなたの御国においでになるときには、

私を思い出してください」と言った。ルカ23:42

 ヨハネ19:16~30

 Ⅱコリント5:(14b~18)19~21

 ルカ23:32~49

  (ローズンゲン日々の聖句4/14;金)

 

 私たちにも、「なんの喜びもない」というような年齢が来るのですね。

今まで出来ていたことが一つ一つ取り去られ、歩くことも、食べることも、出すことも自分一人ではできなくなる、そのような日々が。

 

 そのようなときにも、創造者である、天の神、主との語らいを持っている者は喜びがあるのだそうです。

だから、青春の日々に、まだ元気なときに、創造主との関係を深めておくようにと伝道者は言うのですね。

 

 けれども、遅すぎるということもないようです。

イエスと一緒に十字架につけられた強盗のひとりは、最初のうちはみんなと一緒に、「お前が神の子なら自分を救い、私を救え」とイエスをなじっていたそうですが、イエスの静かに刑を受けている様子を見ているうちに、この人はただの人ではないと分かり、言ったのだそうです。

「御国で、私を思い出してください」と。

イエスは答えて

「あなたはきょう、私とともにパラダイスにいます」と言ってくださったのだそうですから。

 

 イエスは、十字架の上で、「すべてが終わった」、「完了した」と言われて息を引き取られたのだそうです(ヨハネ19:30)。

私たち人間の救いのためにしなければならないことは全部し終えた、と。

 

 使徒パウロは言います。

「ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。

キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。

神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。

神が私たちを通して懇願しておられるようです。

私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。

神の和解を受け入れなさい。

神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。

それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」(Ⅱコリント5:14~21)と。

 

神は、私たちが、イエスが受けられた十字架刑での処刑によって手続きが完了した救いを受け取って、神と和解し、

私たちのために死んでよみがえった方の御思いによって生きる生き方を受け取ってほしいのだそうですね。

今日も。

 

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