風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

御力をもって、約束されたことを実現され、

主の手が短いというのか民数記11:23

 

 神は約束したことを実現させる力も、

お持ちの方です。ロマ書4:21

 

 ヨハネ6:(60~62)63~69

 使徒2:37~41(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句5/20;土)

 

 エジプトを出たイスラエルの民は、荒野の生活の中で激しい欲望にかられ、

「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。

キュウリも、すいか、にら、玉ねぎ、にんにくも。

だが今や、私たちののどは干からびてしまった。

何もなくて、このマナを見るだけだ」と泣き、

「私たちに肉を与えて食べさせてくれ」と」モーセに迫ったのだそうです。

 

 それで、天の神、主は、充分に、食べ飽きるほど、肉を食べさせるとモーセに答えられたのですが、モーセは、この戦うことのできる徒歩の男子だけで60万もいるこの民にどのようにして肉を食べさせるのですか。群れの羊や牛、全部をほふっても足りないでしょうに、と答えると、

天の神、主は、「それができないほど、主の手は短いのか」と言われたのだそうです。

 

 そして、天の神、主は風を吹かせ、ウズラの大軍を宿営に降らせ、民は飽きるほどウズラの肉を食べられることになったのだそうです。

 

 「わたしはあるという者」と名乗られる方は、ご自分があろうと思うとおりにあることのできる方、

しようと思う通りをすることのできる方、

約束されたことを実現される力も、お持ちの方なのだそうです。

 

 イエスが、「わたしはいのちのパンである。

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲まなければ永遠のいのちを得ることができない」と言われた時、

多くの人は、「これはひどい言葉だ。誰がこんなことを聞いておられよう」と、イエスから離れ去ったのだそうですが(ヨハネ6:48~69)、

しかし、イエスは、肉体のことを言われたのではなく、霊の世界のことを言われており、

食べた物、飲んだ物で肉体はできており、ある意味で、食べた物、飲んだ物と肉体が一つであること、一体であることをさして言われ、

エスによって〔父である神〕と思いを一つにすることを、パンと肉体に例えて言われたのでしょうね。

 

 

 十字架刑での処刑を受けられ、

三日目に墓より、新しい霊のからだによみがえり、

〔父である神〕の右に上げられたイエスが、

御父から約束された〔聖である霊と呼ばれる方を受けて、受け入れる者に派遣してくださり、

この方の働きで、〔父である神〕が私たち、一人一人に思っておられる御思いをその心に置いてくださるのだそうです。

そのようにして、受け入れる者を、〔父である神〕と一つ思いにしてくださるのだそうですから。

 

 この約束は、すべての遠くにいる人たちにも与えられているのだそうです。

 

 目が今だ見ず、耳が今だ聞かず、人の心に思い浮かびもしなかったこと、

天使たちがかたずをのんで見守るこの出来事を、神は御力をもって成し遂げ、完成し、

東の果てに住む私たちにも届けていてくださるのだそうですから。

今日も。

 

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