心に思うことが幼いときから外れている私たちを
主は言われた。 「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。 人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。」創世記8:21
あなたがたも知っているように、 御子は罪を除くために現れました。Ⅰヨハネ3:5
黙示録4:1~11 使徒4:13~22(通読箇所) (ローズンゲン日々の聖句5/27;土)
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になった人間が心に思うことは、もの心ついた時から、天の神、主と思いを一つにしていく方向ではなく、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方に対立、対抗して、自分を神の上に位置していく思いのようです。
それで、人間同士にあっても、 それぞれが自分を他の人の上に置こうとし、 他を自分の善悪の判断に従わせようとして対立、対抗し、 良いものの全部を自分一人で独占しようとして他を蹴落としていこうとする性質を持っているようです。
人は、その性質を道徳や教育でカバーしようとするのですが、表面は整えられたとしても、本心は変わらないようです。
人の心に計ることがみな、いつも悪いととだけに傾き、堕落し、地に暴虐が満ちたので(創世記6:5、11)、天の神、主は、洪水によって地を一掃し、ノアとその家族、箱舟に入ったものたちによって世界を新しく始めることをされ、人の悪のゆえに「大地を呪うことは二度とすまい」と言われたのだそうです。
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、人の心の悪のゆえに人と大地にあるものを罰する道ではなく、 贖(あがな)う、 身代わりのものを罰することで赦す道を用意しようとされていたのだそうです。
それで、「世の罪を取り除く神の小羊」、 すべての人の身代わりとなり、すべての人の「的外れ」の責任を負って処刑される小羊(出エジプト12:3、7、13、イザヤ53)として、 〔父である神〕の御思いを受けて、 〔御子である神〕が、「女の子孫」(創世記3:15)として人の世に来られ、 神に呪われた者として、十字架刑で天と地の間に掲げられ、処刑を受けてくださったのだそうです。
「父である神」は、この〔御子である神、イエス〕の受けられた処刑を、 「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている、私たち一人一人の〔生まれた時からの私〕という霊の処刑と見なしてくださり、 〔生まれた時からの私〕という霊の死亡手続きを済ませてくださっているのだそうです。
そして、三日目、日曜日の早朝、死者の中から、新しい霊のからだに復活し、 40日に渡って何度も弟子たちに現れ、神の国のことを語ったのち、 オリーブ山から、弟子たちの見ている前で上げられ雲に迎えられて見えなくなり、 天の父である神の右の座に帰られたイエスを通して、 受け入れる者に、もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣し(ヨハネ14:16)、 この方によって、受け入れる者の心にご自身が私たち一人一人に思っておられる御思いを置いて、 受け入れる者がご自身と同じ思いを思い、同じ願いを願い、心を一つにして御思いのとおりに生きる者にしてくださるのだそうです(エレミヤ31:33~34、エゼキエル36:25~28)。
ご自身が語ろうとすることを語る者としてくださり(使徒2:4、4:8、13)、その、語った通りの事実をもって保障してくださるのだそうです(4:14)。
実に、被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられる(黙示録24)希望をもって、 切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのだそうですから(ロマ8:19~21)。 今日も。
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