風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

私たちの労苦と悩みをご覧になって

わたしが地上から上げられるとき、

すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。ヨハネ12:32(5/28の週の聖句)

 

 あなたは必ず御覧になって、

御手に労苦と悩みをゆだねる人を、顧みてくださいます。詩10:14

 

 イエスは人々を迎え、

神の国について語り、

治療の必要な人々をいやしておられた。ルカ9:11

 

 ヨハネ15:26~16:4

 詩27(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句5/28;Ⅳ日)

 

 イエスは、自分が十字架刑での処刑を受けることを知っておられたようですね。

過ぎ越しの祭りにエルサレムに上って来ていた幾人かのギリシャ人が、イエスの弟子のピリポに「イエスにお目にかかりたいのですが」と頼んだ時、イエスはこのように言われたのだそうです。

 

 「わたしが地上から上げられる」、

十字架刑で天と地の間に掲げられる、

そのとき、「すべての人」を自分のもとへ引き寄せる、

 

神の民イスラエルだけではなく、全世界のすべての人を、という意味でしょうか。

 

 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、最初から、すべての人を祝福しようと考えておられたようです。

 

それで、イスラエル民族の始祖アブラハムに「わたしはあなたを祝福し、あなたは祝福となる。

地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」(創世記12:1~3)と仰られ、

それが、2000年後の今、イエスによって実現しようとしているようです。

 

 私たち、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている者の心の奥底には、「神はいない」、「神は見ていない」との思いが潜んでいるようです。

だから、わざわざ、「天、知る、地、知る、我も知る」などと教えないといけないようです。

 

 けれども、私たち人間を造られた方は、必ず、見ておられ、労苦と悩みを御手にゆだねる人々を顧みてくださる方なのだそうです。

 

それで、イエスは、ご自分のもとに来る病の人、治療の必要な人をいやしてくださり、

ご自分を、律法を教える先生ではなく、癒しが必要な人を招く医者に例えられ、

「わたしは正しい人を招くためではなく、罪びとを招くために来たのです」と言われたのでしょうね(マタイ9:12~13)。

 

 私たちすべての人間の身代わりとなり、すべての人の「まとはずれ」の責任を負って十字架刑で地上から上げられ処刑を受けてくださり、贖いを完成されたイエスは、

近くにあった、アリマタヤのヨセフが自分のために掘っておいた墓に葬られたのだそうですが、

三日目、日曜日の早朝、死人の中から新しい霊のからだに復活し、

40日に渡って何度も弟子たちに現れて、神の国のことを語ったのち、

オリーブ山から、弟子たちのみている前で雲に迎えられ見えなくなり、

天の〔父である神〕の右の座に帰られたのだそうです。

 

 イエスは言い残していかれました。

「わたしが父のもとから遣わす助け主、

すなわち父から出る真理の御霊が来る」(ヨハネ15:26)と。

 

その方が、受け入れる者の心に、イエスについてあかしをし、

「御顔」、〔父である神〕の自分に対する御思いを慕い求めていく愛を起こしてくださり、新しい生き方、祝福された生き方を生きさせてくださるのだそうです(詩篇27)。

今日も。

 

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