風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

思いやる心が、私たちにも来て

主であるわたしは、わたしの僕を立てた。

見ることのできない目を開き、

捕らわれた人をその枷(かせ)から、

闇に住む人をその牢獄から救い出すために。イザヤ書42:6、7

 

 自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、

また、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。ヘブル書13:3

 

 Ⅰヨハネ4:1~6

 使徒4:32~37(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句5/30;火)

 

 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、愛に満ちた方なのだそうですね。

それで、私たちにも愛し合う者になってほしいと願っておられるようです。

 神のひとりのようになり、善悪を知る者」になった私たち自身である私たちの〔生まれた時からの私〕という霊は、自分を他よりも優れたもの、上のものにしなければ気が済まず、他を自分の足の下に置いて、見下していく性質を持っているようです。

 

 イエスの十字架刑での処刑を、この、〔生まれた時からの私〕という霊の処刑としていただいた者に来て下さる〔聖である霊〕と呼ばれる方は、愛に満ちた方。

他を大切に思い、他を思いやる〔父である神〕の御思いを受け入れる者の心に置いてくださる方なのだそうです。

 

 それで、この方によって、〔父である神〕の愛の思いが、私たちの心にも来て、私たちも牢獄に捕らわれている人、虐待されている人を思いやる心を持つ者にもしていただけるようです。

 

 この〔聖である霊〕の働きを受けた最初の弟子たちの群れは、心と思いを一つにし、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、自発的にすべてを共有にしていて、ひとりも乏しい者がなかったのだそうです(使徒4:32~37)

 

 この世にはいろいろな霊が働いているのだそうです(Ⅰヨハネ4:1~6)。

それで、その霊がどこから来た霊なのか見分ける必要があるようです。

 

エスの十字架刑での処刑を通して受け入れる者に来て下さる〔聖である霊〕が働かれるところでは、愛し合い、他を大切に思い合い、弱い立場の人(信仰の弱い人も)を思いやる実が結ばれて行くのだそうですから。

今日も。

 

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